会報No.26に寄稿したとき、ダシール・ハメットの“Red Harvest”が7回翻訳されていると書いたが、その後,田口俊樹さんの新訳が出た。1953年に最初の翻訳が出て以来、8回翻訳されたことになる。田口訳の邦題は『血の収穫』、旧訳では『赤い収穫』だったこともある。社友会の諸賢にはなじみの薄い小説だと思うが、1929年に出版されたこの作品は、ハードボイルド小説の始祖的な古典だ。初めて読んだのは73年ほど前の高校時代だった。冒頭の”I first heard Personville called Poisonville by a red-haired mucker named Hickey Dewey in the Big Ship in Butte. He also called his shirt a shoit.”と、それに続く主人公の”私”の視点で見たパーソンヴィルの警官たちのだらしない姿の描写の意味ををどうにか読み解いて、わくわくした記憶がある。
 主人公はハメットのほかの作品にも登場する男だが、名前は不明。Continental Detective Agencyのoperative (調査員、工作員の意)であることからコンチネンタル・オプと呼ばれる。40歳で、身長1.7m、体重86キロ。常に彼の視点の一人称で語られ、ハメットは彼の心理や感情など内面描写を徹底的に排除しているので、彼がどんな口調・表情でしゃべったのか、読者は自分で読みとらねばならない。主人公の”私”が笑った、怒った、泣いたと、くどくど書かれた抒情的な小説と比べてみると、ハメットのハードボイルドの文体の凄さがよく分かる。彼の文体がアーネスト・ヘミングウエイに影響を与えたという伝説があるほどだ。
 オプは街の新聞社の社長に呼ばれてパーソンヴィルに来たのだが、面談の直前に社長は射殺される。社長の父親の鉱山会社の持ち主がオプに街の浄化を依頼する。第一次大戦後の不況時の労働争議のスト破りに雇ったギャングがそのまま居座り、警察は腐敗してパーソンヴィルはポイズンヴィル(=毒の村)と化していた。オプは浄化の仕事を引き受け、奔放に動き回る。警察の悪徳署長がギャンブラーを挙げるつもりだというと、オプはその情報をギャンブラーに流す。お礼のつもりか、ギャンブラーが八百長ボクシングのネタを教えると、オプは街のあちこちで言いふらして掛け率を逆転させる。署長も浄化されねばならぬひとりで、彼の部下が背後からオプを撃つと、オプはその警官を射殺するのだから、オプが無節操で無軌道な男に見える。彼の狙いは、腐敗した警察、ギャンブラー、密造酒屋、故買業者など街を牛耳る悪の組織の対立を煽り、争わせて共倒れに追い込むことだった。再読してみて、目まぐるしい展開を組み立てたハメットの構想力にあらためて感心した。
 あとがきの解説者は、作家の筒井康隆が「『血の収穫』のプロットは、あらゆる小説、映画、劇画に流用されている。その数、おそらく百をくだるまい」と指摘していること、また、黒沢明監督の映画『用心棒』もその一つで、監督が「ほんとは(ハメットに)断らなければいけないくらい使っているよね」と語ったと述べている。
 この作品を最初に紹介したのは江戸川乱歩だった。乱歩と言えば、子供向きには『少年探偵団』の作者で、最近になって岩波文庫にも収録されている作品もあるが、大人向きには『人間椅子』『屋根裏の散歩者』『蜘蛛男』など、かなりいやらしい小説を書いた人だ。小学生時代に誰かから大人向けの作品を借りて読んで、この本を読んでいるのがばれたらられるなと思いながら、こっそり読了した。彼のいやらしい作品群は昭和ひとけたの”エロ・グロ・ナンセンス“の風潮の時代に書かれたもので、戦後になって彼は“改心”した。1946年に「戦争前“エロ・グロ”といふ言葉が流行し、私の探偵小説もその代表的なるものの一つとして、心ある向きより非難攻撃をあびせられていた。私は態と時流に迎合したわけではないが、少くとも子供なども読む程度の低い大衆娯楽雑誌にセンジュアル且つグルーサムな探偵小説を書いたことは非常にいけなかったと悔んでゐる。今後はさういふあやまちを再び繰返さないつもりである…」とある雑誌に寄稿した。そして、戦争で空白になっていた時代に英米ではどんな作品が出ていたのか精力的に調べ始めて、海外ミステリの研究・紹介者として活躍した。戦後の2,3年はおかしな時代で、洋書の正規の輸入の外貨枠は限られていたが、進駐軍の基地から読み古しのペーパーバックが神保町、渋谷、六本木などの古本屋に出回っていて、アメリカの小説類が結構入手できた。乱歩も古本屋で発掘している。彼が誌上で紹介した作品を捜し歩くのは楽しかった。
 乱歩は『随筆 探偵小説』(1947)のなかで、”Red Harvest”を『血の取り入れ』という仮題で取り上げて、アンドレ・ジイドが称揚した作品と知って、一読してみたが、推理小説ではなく、機関銃撃合いのギャング小説だと断定している。さらに、オプの行動には極端な違和感を持ったらしく、手厳しい批判を述べた。
  「この探偵のタフといふことが次第に倫理性を欠くが如き方向を採って行き、現在のハード・ボイルド派作品は犯人以外の登場人物までも殆んど倫理観を持たず、探偵や警官さへも含めて、朝も酒、昼も酒、…(中略)…酒と女と殺人、この三つのものが凡て享楽として取扱はれ、そこにあるものは、もはや謎と推理の興味ではなくて、全く別の面白さである。こういふ作風がアメリカ大衆に歓迎されてゐる理由はよく分るが、若しこの勢ひがクリスティー、クヰーン、カーなどの作風を壓倒して、その餘勢が欧州にまで及ぶとすれば、本来の推理小説のため甚だ悲しむべきことである」
 つまり、犯罪者が倫理観に欠けているのは当然であっても、探偵までが倫理観を持っていない作風が拡がったら大変だと乱歩は真剣に憂慮しているのだ。オプの表面的には無節操な行動が、実はポイズンヴィルを浄化するための毒を以て毒を制する意図的な手法だったとは考えず、オプもほかの登場人物同様の悪党だと誤読してしまったようだ。
 1953年に早川書房から『赤い収穫』が出版されたとき、乱歩が解説を書いている。あとがき・解説というものはその作品の面白さとか特異性を強調して、読者の関心をあおるのが普通なのに、乱歩は「どうもハードボイルドのアメリカ式リアリズムといものが好きになれない」と書いている。あとがき解説にこういうネガティヴなことを書くのは現代では珍しい。上記の引用文にあるような刺々しい激昂調は沈静化しているが、それでも、“誤読”だったとは認めていない。誤読ではないとしたら、どんな目的であろうと探偵たるものはが悪しき手段を使うのは倫理に反するという視点で、嫌ったのかとも解される。彼のいうアメリカ式リアリズムなるものも把握しにくい表現である。
 彼はハードボイルド派作品には”謎と推理”がないと指摘した。彼が言う”謎と推理“はアガサ・クリスティーやエラリー・クイーンの作品に出てくるような犯人当て、あるいは密室殺人の解明といった類いの古い型の探偵小説のテーマとなった”謎と推理“で、作中のあちこちに手掛かりがさりげなく書かれていて、結末で探偵役が手掛かりをまとめて、犯人はこの人物だと締めくくるタイプのものだ。『血の収穫』でも”謎“が幾つも出てきて、オプが“推理“する。例えば、銀行強盗の一人が老警備員に射殺される。警備員自身は自分の手柄だと思い込んでいるが、目撃者の話を聴いたオプは強盗の仲間が撃ったのだと推理する。読み直してみると、目撃者の話や現場の描写から警備員の手柄ではないと読者も推理できる文章になっている。ちゃんとした謎解きなのだが、乱歩にはつまらなかったらしい。彼は、当時の海外作品研究の第一人者だったから、気に入らないとぼやきつつ、ハメットを紹介せねばならぬ立場だった。