驚きの歴史発見

新型コロナウイルスの感染症拡大の影響で、外出を控え自宅(横浜市金沢区)での生活が強いられるようになった5~7月頃、未整理の書籍と写真帳の整理を行う事にした。書籍類の中に「日綿70年史」と「ニチメン100年」が目に留まり、当社の横浜支店に関係する事項を社史・インターネット・横浜開港資料館発行の「開港のひろば」等の資料から調べているうちに様々な会社と不思議な縁で繋がっている事や戦前、当社が建設した横浜支店のビルが誕生から現在までの92年間健在で、「横浜市指定有形文化財」に登録されるほどの建築物であることを知る。関東大震災、敗戦等、幾多の困難を乗り越えた先人達の英知や努力に感服すると共に今日までの横浜支店の歴史を少し探ってみようと思い立った。

横浜出張所の開設

明治初年来、我が国輸出品の中心的存在として生糸は、外貨獲得に大きな役割を果たして来た。海外に於ける生糸の消費状況を詳しく調べた結果、生糸取引の伸長が見込まれて1918年(大正7年)3月、横浜出張所を開き、生糸取引に着手した。当初から、経験を深めてから進むと言うWatch and Goの方針で当社と密接な関係にあった中外貿易株式会社に業務を委託し同社の手を経て、当社ニューヨーク出張所との間の取引を行うことになった。
そして、1919年(大正8年)10月より当社直接の商いとして本格的に生糸取引に参入した。

横浜支店の誕生

①アーレンス商会

1914年(大正3年)7月、英・仏・露3カ国の連合国と独・オーストリアを中心とする同盟国との間に第一次世界大戦が勃発。同年8月、日英同盟の関係から不本意ながら独国との間に戦宣布告。同年1月初め、独国が中国から租借していた膠州湾と青島を占領し我国海軍が、制海権を握るに及び業容は拡大し中国向け綿糸布や欧州向けの輸出が急速に伸びた。また綿花・羊毛・ビルマ米等の輸入の取引も激増した。4年に及ぶ戦争終結(1918年11月)に伴い戦勝国となった日本は、我国に有った独国の資産を接収し政府の管理下に置いた。1920年(大正9年)、横浜山下町29番地に有ったアーレンス商会の3階建て赤レンガの事務所・倉庫等の建物を日本政府から譲り受け、出張所を支店に昇格させた。当時、アーレンス商会横浜支店はホテル・ニューグランドの斜め前に位置しホテルの中庭から支店建物が良く見えたと言う。アーレンス商会は、1869年(明治2年)、東京・築地に薬品や染料等を取り扱う外商として設立され、1873年(明治6年)横浜に支店を開店した。

関東大震災

1923年(大正12年)9月1日、正午頃、関東地方に大地震が発生。昼食の支度で火気を使用していた時間帯であった事も加わり、関東一円建物の倒壊・火災による被害は甚大であった。当社、横浜支店の被害は、元アーレンス商会から引き継いだ建物及び倉庫が倒壊、諸帳簿及び関係書類は全焼した。また、倉庫に保管中の様々な原料及び製品の総てを焼失した。損失額は保管中の商品等、資産300万円、その他、間接的な被害として、米国の得意先に対する売約済み生糸の未船積み分の買埋による値合金損失、回収不能手形、売掛金切捨て損、有価証券の値下り損等々で100万円と見積られ、合計で損害見積額は総額400万円であった。この損金のうち、250万円は別段積立金を流用し残りの150万円は、前期繰越利益金及び当期(第62期)の利益金によりこれを埋めた。経済的損失の他、当社の人的被害は、社員・雇員合わせ12名の諸氏が犠牲になられた。

アーレンス商会 = 高田商会 = 日綿

明治初期に於ける日本の貿易は、外商と称された商館による独占状態にあった。明治政府は1880年(明治13年)政府機関が外国製品を調達する場合、邦人による貿易会社(内商)を通じて行なう旨の通達が出された。これに伴い武器‣機械等の輸入を中心にしていた独国のベア商会は、廃業に追い込まれた。その為、同商会の番頭であった高田慎蔵氏と英国人ジェームス・スコット氏、そして、アーレンス商会の代表アーレンス氏の三者の出資により1881年(明治14年)高田慎蔵氏を代表者とする内商・高田商会が誕生した。富国強兵を掲げ近代化を推し進めていた当時の日本の情勢は、追い風となり1894年(明治27年)の日清戦争で同社は巨額の利益を上げた。しかしながら、関東大震災により当社同様に社屋の倒壊、商品の焼失、為替差損等多額の損害を被り、1925年(大正14年)経営が破綻し整理会社となった。その後、整理案がまとまり第2次「高田商会」が設立され、戦後まで機械専門商社として活躍してこられた。1963年(昭和38年)総合商社化を目指していた当社は、機械専門商社「高田商会」を吸収合併した。

横浜支店の自社ビル建設

②新築時の当社ビル
(正門玄関真上に社章の分銅マーク)

関東大震災により大きな被害を蒙ったが生糸を中心する商いが順調に進展した事により、横浜市中区日本大通り34に地上4階、地下1階、鉄筋コンクリート構造、建築面積382㎡、延床面積1953㎡の自社ビル(事務所・倉庫)を建設することになった。礎石にMCMXXVII A.Dとローマ数字で刻印されたものが有り、1927年には外構が出来上がっていたと推測される。建築設計を依頼したのは、近畿を中心に数多くの商業ビルを手掛けておられた渡辺節氏であった。渡辺氏は1884年(明治17年)11月3日、東京都千代田区に生まれ、東大建築学科を卒業後、鉄道院に入り京都駅舎等(後に焼失)を設計された。退官後、1916年(大正5年)大阪に設計事務所を開き商業ビルを中心に数多くの作品を誕生させた。関西地区に現存する主な建物は、大阪商船(神戸市中央区)・大阪ビルヂング(大阪市北区)・綿業会館(大阪市中央区)等である。同氏が携わった作品として、横浜に現存するものは、当社ビルのみである。同ビルの外壁は、水平方向に削りを入れた褐色のスクラッチタイルで神奈川県庁本庁舎と同じ仕様で仕上げられており、昭和初期流行りの建築様式であったことがうかがえる。綿花ビルの竣工は、1928年(昭和3年)2月である。

戦後の横浜支店

当社ビルは、戦災を免れ無傷のままで残り、ロケーションが良かった事も有って戦後、米軍進駐と同時に横浜の司令部として接収された。皮肉にも第一次世界大戦では戦勝国として独国のアーレンス商会所有の建物を我国が接収したが、今度は敗戦国となった我国が米国によって逆に当社ビルが接収される事になるとは、テレビ・ドラマ「半沢直樹」の世界のように倍返しされたような気持である。退去後は、新しい事務所を求めて市内の女学校、横浜正金銀行内の一室、或いは、生糸検査所内等を転々と移転せざるを得なかった。1953年(昭和28年)、生糸取引業務の本拠地を再び横浜支店に置くことになり高級絹織物、生糸の輸出では、業界第1,2位の実績をあげるまでになった。
輸入業務では、食糧庁向け米国産小麦、綿花、化学品の輸入を行う一方、鉄鋼、木材、機械等の国内販売にも力を入れた。1960年(昭和35年)10月から「三和ビル」で営業。その後、業容の変化に伴い新しい事務所「銀洋」に移転した。しかし、生活様式の変化や化学繊維の伸長等から生糸・絹織物取引が衰退し業績不振で1966年(昭和41年9月)支店から出張所へ変更し、食糧関係の輸入業務のみを行っていた。1988年(昭和63年)8月、内需景気の回復と共に首都圏の一角を担う横浜地区の経済が拡大したことから再び支店に昇格。


  • ③三和ビル
    (中区伊勢佐木町)

  • ④銀洋ビル
    (西区北幸町)

2003年(平成15年)、日商岩井と合併するまでの期間に就いては、分社化、統合など変動が大きく、資料の組織的な収集・管理・公表が少なく、今後の追跡調査が必要である。

生きていた綿花ビル(写真参照)現在の綿花ビル

  • 現在の綿花ビル 正面玄関⑤正面玄関
  • 現在の綿花ビル 外観-1⑥外観-1
  • 現在の綿花ビル 外観―2⑦外観―2

尚、倉庫棟は、中区区役所の別館として使用されている

戦後、進駐軍によって接収されて以降、横浜支店の綿花ビルは、どの様な変遷を経て今日に至ったのか歴史を紐解いてみた。

  1. 1954年(昭和29年)日本政府が進駐軍より買取る。
  2. 1960年(昭和35年)「事務所棟」は関東財務局、「倉庫棟」は労働基準局庁舎として使用された。
    1993年(平成5年)両庁舎が横浜第二合同庁舎に移転した後、
  3. 1997年(平成9年)から横浜地方裁判所建て替えの為、仮庁舎として使用。
  4. 2003年(平成15年)横浜市が日本政府からビルを取得。
  5. 2005年(平成17年)横浜トリエンナーレ(現代アートの国際展)会場として一部使用される。
  6. 2006年(平成18年)から2010年(平成22年)までは、文化・芸術の創造拠点ビルとして「ZAIM」の名称で活用された。(元関東財務局が使用した関係からこの名称のビルとなった)
  7. 2013年(平成25年)事務所棟部分は、横浜市指定有形文化財として登録された。
  8. 横浜市は、事務所棟部分の活用化を図る為、事業者からの一般公募が行われ応募者9社の中から「横浜DeNAベイスターズ」が選定された。
  9. 2017年(平成29年1月)ビルの名称を「THE BAYS」とした。

因みに、同社の利用状況は、一階は、横浜スタジアムから移転してきたショップであるが応援グッズに止まらず、日常生活で使われる日用品を販売する「プラス・ビー」とカレーライスやベイスターズオリジナル醸造のクラフトビール等を販売する「カフェ・アンド・ナイン」が有る。二階は、主にクリエイティブ企業や大学の研究室、個人のクリエイター等が使用するシェアーオフィスとなっている。
三階は、会議室と多目的スタジオ、四階は、球団事務所として使われている。

日本大通り周辺の散策

この大通りは、明治3年頃完成した日本初の西洋式街路で重厚な歴史的建物が建ち並ぶ大通りで銀杏の葉が黄色に染まる頃の並木路は、素晴らしくドラマのロケ地に選ばれるほどの大通りである。周辺には、神奈川県庁舎(King Tower)・横浜税関(Queen Tower))・横浜開港記念館(Jack Tower)の三大タワーが見られる。また、横浜球場、山下公園、大桟橋(大型客船・飛鳥の母港)、外人墓地、グルメの中華街等々がある。是非とも綿花ビル(横浜市指定有形文化財)を尋ねに「みなとまち」へ来られませんか。

交通機関:
*みなとみらい線「日本大通り駅」より徒歩1分
*京浜東北・根岸線「関内駅より徒歩8分
*横浜市営地下鉄「関内駅」より徒歩7分