この夏さる新聞の読書欄を見ていたら、偶々ドイツの社会思想家マックス・ウェーバーに関する新書が、期せずして二つの出版社から同時に刊行されたことを知った。その一つは岩波新書によるもので著者は今野元、題して「マックス・ウェーバー」、副題に「主体的人間の悲喜劇」とある。もう一方は中公新書で著者は野口雅弘、同じく「マックス・ウェーバー」、副題に「近代と格闘した思想家」とあった。どちらも今年この思想家の没後百年を記念してのものである(彼の没年は1920年)。
わたしは早速近くの本屋に駆け込んで、発売したてのこの二冊を買い求めた。思えばわたしがニチメンという貿易商社に入社したのは1960年という年だった。周りの真面目な学生なら安保闘争に明け暮れしていたことだろうが、わたしはそういった思想や運動にあまり興味はなく、ただただ高度経済成長によって我が国の復興を目指すだけの、当時の言葉でいえばノンポリと言われても仕方ない学生だった。
しかし当時はといえば、読書界も言論界もこぞって左翼系(マルクス系)の思想によって席捲されていたようだった。とりわけ安保闘争に激しさが募るなか、デモ中の東大女子学生が機動隊の犠牲になったときのことが、今も苦々しく思い出される。マックス・ウェーバーが生まれたのは1864年だから、生誕百年を記念していろんな刊行物が出回ったのも、安保闘争の真最中それも1964年頃のことではなかったか。わたしの記憶の中にマックス・ウェーバーの名前が刻まれたとすれば、多分このころではなかったかと思う。
あの当時、東大には丸山真男という当代切っての政治学者がいて、安保闘争を支持する知識人の一人として持てはやされていた。それにもう一人東大には大塚久雄というこれまた高名な社会学者いて、丸山の政治学、大塚の史学などと並び称されていたものだ。マックス・ウェーバーの研究は主に大塚久雄によって始まったらしいが、丸山真男も早い時期からウェーバーで論壇をにぎわしていたことは有名である。
早めに申し上げておかなければならないが、マックス・ウェーバーというドイツの社会学者(経済学者にして政治学者でもある)は決してマルクス主義者でもなければ、左翼系でもない。わたしに言わせれば明らかなドイツ国民・国家主義者である。かく申し上げながら私自身、これまでの人生の中でマックス・ウェーバーの著作に触れたこともなければ論じたこともない。今度手にした二冊の新書を読み終えて初めてこの思想家の何たるかを知ったところである。注目すべきことは、マックス・ウェーバーという国民・国家主義的な思想家がわが国の読者に受容されるのは、不思議なことに、丸山真男とか大塚久雄といったどちらかといえば左翼系の学者を通して行われたことであった。
歌謡曲の謳い文句に「歌は世につれ,世は歌につれ」というのがある。上記したような新書二冊を読み終えた読後感として、わたしはこの歌謡曲の謳い文句を思い起こしていた。思想も政治も同じように世につれ、世もまた思想や政治につれて漂浪するものだが、しかしそれは10年単位での話というものだ。それに比べて百年という年月の経過はただごとではない。どんな思想も政治も、それを生み出した人が誰であれ、没後百年という年月を生き残ることはできない、というのが私の率直な印象であった。ことほど左様にわが国はともかくとして欧米における読書界では、ウェーバーという思想家は過去の人になりつつあるらしい。
マックス・ウェーバーという、当時から「知の巨人」とまで謳われてきた思想家だが、今に残る著作といえば「ピューリタニズムの倫理と資本主義の精神」ぐらいか(無論わたしは読んだことがない)。それとて今に語り継がれてきたものは、「鉄の檻」という彼に着せられたメタファー(暗喩)ぐらいのものではなかったか。つまりは資本主義世界に住まう民衆は、あたかも鉄の檻の中に閉じ込められたも同然で、がんじがらめの官僚制・管理体制の下で自由がないというもの。そうした議論じたい今なら陳腐なものに思えるが、1960年代新進気鋭の左翼系学者なら、資本主義への批判的な議論として歓迎したのが時代というものだったのかも知れない。
冒頭の新刊書のそれぞれの副題、「主体的人間の悲喜劇」そして「近代と格闘した思想家」が示しているように、彼の思想の根源に流れるものは、あくなき闘争心だったように思える。そしてその闘争心を支えていたものは、畢竟するに、ダーウィニズム(適者生存)とエリート主義(高踏主義)だったのではなかろうか。
丸山真男は日本のアカデミズムとジャーナリズムの橋渡しを演じたといわれるが、マックス・ウェーバーの場合も、丸山同様アカデミックな世界でも、またジャーナリストとしても八面六臂な活動を展開していた。しかし彼が丸山と決定的に違うのは、同じ政論であっても彼の場合は常に主体的で闘争的な自己主張であったということだ。
マックス・ウェーバーについての具体的なケースに興味がある読者には、既述の新刊書を手に取ってお読みいただくとして、ここにわたしが触れておきたいことがある。それは他でもない、先ほどわたしは彼のことをドイツ国民・国家主義者と申し上げたのだが、その彼とヒトラーの国民社会主義(ナチズム)との関連である。
アドルフ・ヒトラーという、当時まだ無名の男がドイツ労働者党(DAP)に入党したのは1919年のことだという。その翌年つまり1920年この党は国民社会主義労働者党(NSDAP)、即ちナチ党を名乗ることになる。繰り返しになるがマックス・ウェーバーが没したのはこの年のことだから、先ほども記したように彼はマルクス主義者でもなければ社会主義者でもない上は、こうしてヒトラーやナチズムとは物理的にも全く無縁だったことが知れる。
にも拘らず今では(恐らくは戦後一早くからではないかとも思えるが)、マックス・ウェーバーという思想家は、なぜかヒトラーやナチズムの国民社会主義との間に奇妙な親和感を覚えさせる。何故だろうか。早い話が前掲の「マックス・ウェーバー」の著者今野元にしてから、わざわざアドルフ・ヒトラーとの関連に終章を充てているのである。
この終章によると、E・ノルテという学者は『その時代におけるファシズム』(1963年初版)なる著作の中で、ウェーバーの著す『国民国家と経済政策』の文言は、ヒトラーの『わが闘争』にあっても不思議のないものだと述べていること、さらには国民社会主義の思想的先駆として、マルクス、ニーチェと並んでウェーバーをも挙げていることが紹介されている。言いえて妙なる評論ではないかと思う。ナチ党が名乗る「国民社会主義労働者党」だが、恐らくヒトラーの時代、彼の頭の中にあったものは社会主義でもなければ労働者でもなく、国民国家による全体主義、つまりファシズムだけだったはずだ。
一方ウェーバーはといえば、ドイツが第一次世界大戦の敗戦国に堕し、過酷な賠償金を課せられて悪夢のような事態を迎えていた折、彼は信条とする国民・国家主義、つまりはドイツ統一主義をもって政治の世界を呻吟していた。しかしこのころ既に彼の体は精神疾患に蝕まれ、余命は尽きようとしていたのである。何べんも申し上げるように、彼はマルクス主義や社会主義とは相容れない思想家であり、更には全体主義など憎悪の対象以外に考えもつかなかったろう。しかし上記のようにドイツ国民・国家主義という一点に絞れば、双方に共通する理念がなかったとも言い切れない。そこにもし彼が56歳というような短命でなく寿命を全うしたならば、ナチズムやヒトラーの前で彼は如何なる言動を以って応じただろうか、いやがうえにも推論は尽きない所以である。

わたしは先にヒトラーとウェーバーとの間の奇妙な親和性について触れたが、そのことについて一言解説して本稿を脱したい。
それはドイツという国が、中世以来数百年もの間抱き続けてきた、あの古代ローマ帝国の末裔としての矜持を捨てさることができなかったことと関連があるのではないか。神聖ローマ帝国そのものは、1806年ナポレオン将軍によるライン同盟の結成であえなく抹消させられはした。その後幾多の変遷をへて1871年、鉄の宰相ビスマルクによるドイツ帝国の成立(わが国の元勲、伊藤博文による明治憲法は、この時のドイツ立憲君主制に倣ったものである)があり、さらには第一次大戦の終焉とともに(1919年)、立派なドイツ共和国の成立がある。
こうしたドイツという国の形の(これを国体ということも許されようか)変遷にもかかわらず、ドイツ人は古代ローマ帝国という栄光への郷愁を拭い去ることはできなかったのだ。ドイツ人にとっては、プロシャ(プロセイン)という大分邦の住人ならプロシャの国民であり(宰相ビスマルクがそうだったし、ウェーバー自身もプロシャ出身)、バイエルンの住人なら自分はそこの国民であった。しかしプロシャ人にとってもバイエルン人にとっても、本当の故国(国家)はといえば、理念としても概念としても神聖ローマ帝国という、古代ローマ帝国への郷愁そのものだったのではないか。
島国である我が国では到底考えられない国民と国家の間の乖離である。その神聖ローマ帝国をドイツ人の頭から見事なまでに払拭し去ったのは(むろん現実のドイツ共和国ともども)、ほかならぬヒトラーではなかったか。