あれから、かれこれ50年が過ぎようとしている。私はモスクワに勤務していた。朝、公団から電話があって、相談がある。直ぐ来てもらえないか、という。私は、ホテルの前のタクシー乗り場に行ったが、空車は一台もなく、仕方なく大通りに出て白タクを探すことに。白タクは一応禁止だが、レーニンの昔から需給緩和に役立つと、むしろ奨励されてきたという。車の流れに目を遣ると、向こうから綺麗な枝豆色の「ボルガ」がやって来たので、私は手を上げて車を止めた。

「スモレンスカヤ広場!」と運転手に行き先を告げると、青年は「オッケー」と云って前の座席横のドアを開け、「どうぞ」という。同じボルガでも一見して高級車仕様だと分かった。運転しているのは20歳くらいの青年だった。彼はアクセルを踏みこみながら「旦那は、若しかして日本人?」と聞くので「そうだよ、日本人だ。」と答えると、青年は嬉しそうに「僕のママも日本人だ」と調子を合わせるように云った。「嘘だろう、日本人の顔してないよ。日本人に金髪はいないし」と私。彼は云う、「生みの親はロシア人だけど、親父が離婚して、その後日本女性と結婚したんです」。

信号で停車していた車を青信号で発進させたとき、私は気づいた。「この車、発進力が凄いね」。彼によれば、特別仕様で6気筒だそうだ。私は初めて知った。タクシーと同じボルガでも6気筒車があるという事を、きっとこの車の持ち主は相当な地位の人なのだろう。今、ひとりの日本人が秘密警察の枝豆色の車に幽閉され、若い運転手がどこかに運んでいるという心配すべき事態かも知れない。落ち着こう。周囲の状況に注意しながら、自分に言い聞かせた。

日本人がモスクワに駐在する間に、モスクワの女性と結婚するケースは幾らでもあるが、ロシア人が日本人の嫁さんを娶った話はとんと聞いたことがない。自由を捨ててまで。
車がレールモントフ広場まで来たところで、青年は車を右折させサドーボエ環状通りに入った。「君のお父さんは学者かなあ?日本で通訳の女性と巡り合ったとか」。私は訊いてみた。青年は反射的に、「いえ、音楽家です」「ああそうか、音楽家か。じゃあ、バルシャイ!?」彼は「その通り」と云って、「シマッタ!」と云ったが、日本人が隣に座り、話始めると気持ちが緩んでしまったという。「小父さん、この話秘密にしてください。お願いします。この車も親父のものを黙って使っていることがバレたら、大変なことになる」という。私は、「心配無用。誰にも言わないと約束するよ。世話になった君に迷惑かける道理はないよ」。そして、「君のお父さんは厳しいんだろうね」。「はい、もの凄く厳しいです」。

私はロシアの親しいホルン奏者から聞いたことが有る。「バルシャイはサディスト!」だと吐き出すように云ったのを覚えている。この青年にそんな話は出来ないので、別の話をした。「去年の秋、君の御父さんがベートーヴェンの7番を振るのを聴いたよ。ちょっと速めのピッチで始めた。一糸乱れぬ弦の束、管楽器群がピタッと一本になった時の音の膨らみ、音色。素晴らしかった。忘れられない」と私は彼のお父さんの指揮ぶりを思いだして、話した。

彼は、「父親は数学の天才なのです、工科大学で飛行機の設計を研究するはずだったが、好きな音楽の道に進んだのです。」青年は自分を「ぺーチャ」と名乗った。「ぺーチャ、もっと話を聴いていたいが、もう目的地に着いてしまったよ。これは全部取っておきなさい。また会えることを期待するよ。「小父さん、有難う、御元気で」。「ぺーチャも元気でな」。その後、街に出るたびに「枝豆色」の白タクを期待したが、巡り合うことはなかった。

数か月後、大ホールでレオ二ード・コーガンのバイオリンコンサートがあり、出かけた。大ホールは満席だった。アントラクト(中休み)にロビーに出たら、大勢の人の中に、ヨーコちゃんが、お母さんと一緒にいるのが見えた。1958年、コーガンが来日した時、5歳だった天才少女が、コーガンの前でチゴイネルワイゼンを見事に弾くのを私はそばで聴いた。コーガンは7歳になったら招待するのでモスクワにいらっしゃいと言い残し、モスクワに帰って行った。

あれから10年がたつ。佐藤陽子は声楽にも優れた才能を発揮し、音楽院卒業後、マリア・カラスの指導を受けたとも聞いた。そして、画家の池田満寿夫と結婚した。

ロビーにはペーチャの父親であるルドルフ・バルシャイが私と視線が合うと、こちらに歩いてくる。瞬間、ペーチャに迷惑はかけられないと、視線を外した。私の取り越し苦労だったようで、バルシャイは人違いをしたようだ。歩行を止め、私の方には来なかった。後半が始まった。ブラームスのソナタ3番だった。続いて、アンコールにパガニーニの前奏曲など6曲弾いてコンサートは終わった。然し、拍手は鳴りやまない。私はホールの重い回転ドアを押し開けて外に出ると、チャイコフスキーの石像の下に、数台の車が駐車しており、そこに、あの「枝豆色」のボルガがあるのが目に入った。

おわり

広報チーム注:佐藤陽子さんは2022年7月19日に他界されてます(享年73歳)