1962年の6月。モスクワは夜の10時になっても未だ明るい。街にはライラックの紅色の花が咲いて美しく、冬の長いロシア人には待ちに待った「白夜」だ。

その頃はソ連と中国の関係が非常に悪く、我々日本人が街に出るとき中国人に間違えられ殴られたりすることがあり得るので、極力ネクタイを結んだり、ガスライターの炎を長く伸ばしてタバコに火をつけ日本人だと識別させたりしていた。中国人は人民服だし、ガスライターを持っていないからだ。その年の秋にはソ連がキューバに核ミサイル基地を建設していることが発覚、米国が対抗手段でキューバの海上封鎖をし、核戦争を未然に防いだという大事件があった。一方、モスクワ市内は至る所、キューバ万歳のプラカードで一杯だ。かと思うと、ソ連邦科学技術委員会の局長、ペンコフスキー氏がスパイ現行犯で逮捕され銃殺されたと報じられたり、新進気鋭のピアニスト、アシケナージ氏が海外に亡命したとかの話でもちきりだった。1962年はそう云う年だった。

それより数年前、レニングラード・フィルを連れて、指揮者ヤンソンスが来日した時は、私は未だ大学3年生、アルバイトでヤンソンス氏とオーケストラのお手伝いをした。そしてニチメンに入って2年目には駐在員としてモスクワへ赴任した。工作機械の対ソ輸出商談が思いの外、早く纏まったので、私は週末を使って1日トンボ返りのレニングラード旅行をしてみる気になり、ヤンソンス氏に電話してみた。「日曜日の朝レニングラード着の一日旅行を考えてるのですが、マエストロにお会いできますか」と訊くと「それは丁度良い!是非いらっしゃい。明日の晩は私がフィルハーモニーの指揮をする日だ。チケットを入口のおばさんに預けておく。演奏が終わったら楽屋に来てくれ、待ってるぞ」と云ってくれたので私の心は決まり、本社に外出届けの電報を入れた。

私はシャワーを浴びると、ホテルのサービスビューローで直ぐレニングラ―ド往復のチケットを予約した。当時は汽車、劇場などは外貨払の外人は優先的に予約できた。
折角の土曜日、気分よく昼食をとるために瀟洒なメトロポール・ホテルのテラスでの食事を思いつき、タクシーを飛ばすと5分で着いた。そこはマルクス広場と呼ばれボリショイ劇場、小劇場、メトロポール・ホテル、モスクワホテルに囲まれた四角い大きな広場になっている。広場の真中にマルクスの石像と、それを囲むようにライラックが植わっていて、モスクワきっての美しい、文化的な匂いのある広場なのだ。
私はタクシー代を支払うと、真直ぐメトロポール・ホテルの屋外カフェに向かった。
パリのカフェを真似たのだろう。1903年に竣工のメトロポールは精一杯フランス風にデザインされている。テラスのカフェは客で賑わっていた。ボーイに告げると、空いた席に私を案内した。あたりは快適な昼食をとる客で一杯だ。スープ、ビフストローガノフ、黒パンを頼む。イギリス人は洒落て、Beef Strong Enoughと呼ぶ。
早口で言うと本当にロシア語のビフストローガノフに聞こえる。目の前で咲いているライラックは、ロシアではシレー二と云ったなあ。さて、今夜12時出発の夜汽車でレニングラードへ行き、街の見学をしてのち、招待されているコンサートを楽しんで、再び夜汽車でモスクワに戻るのは明後日の朝8時だ。モスクワ駅から歩いて5分の処にあるオフィスには、月曜日の8時5分過ぎに出社できると考えて居ると、さっきのボーイがやって来て私に云う。「ご婦人ですが同席よろしいですか?」私は「いいとも、ここで良ければドーゾ」というと、27歳の私と同じか、一つ二つ歳上かとみられる女性が現れ、軽く会釈して私の向かいに座した。
すらりと姿勢が良く、ブリュネットの髪、目鼻立ちは美しいが、額の右側に2センチほどの傷跡がある。咄嗟に私は彼女がKGB(秘密警察)だなと疑った。しばらく沈黙が続いた。やって来たボーイに彼女は何か食事を注文している。沈黙が2人の間を固めてしまわぬうちに、私は「6月って最高ですね。しかし、そろそろ芝居も音楽もオフになるので,秋になるまで私ら外人には退屈なのですよ」と喋って反応を待った。かの女は一体何ものだろう。週末なのにきちんとしたスーツ姿だ。私が訊くと「自分はロシア人だが、今はカザフスタンで勤務している。夏季休暇を利用して母親がいるモスクワを拠点にあちこち見物しているのだと云う。突っ込んで訊いてみると、仕事はカザフスタンでガスパイプラインの保守の仕事をしており、或る区間の管理責任者らしい。

仮にKGBだとしても、昼になったら食事をするだろう。或いは私を調べるために近寄って来たのか、どうも気持ちが悪い。美人だが額に傷跡というのは、いかにもKGBのイメージにぴったりだ。私は日本人で商社の駐在員をしていると話した。そして、今夜の汽車でレニングラードに行き、丸一日見物したら、その晩深夜便でモスクワに向けて帰ってくるんだと話すと、彼女は「それは面白いこと、出来たら私も一緒に行きたいわ」という。
私は非常に驚いたが、平静を装って「それは結構、旅は道ずれ。然し、今晩ですよ、切符がとれるかなあ」といった。彼女は「行って見たい。レニングラードは以前にも一度行ったことはあるが、未だ見ていない処が沢山ありますから」、KGBはこんな風に外人に近寄るのだろうか。

彼女は「私アナスタシアです。ナースチャと呼んで下さい」、私は「アレックスです」とお互いを紹介しあった。

夜汽車は「赤い矢」号と呼ばれていて、モスクワを深夜の12時に発ち、レニングラードに次の朝8時につく。前に座っている女性は、外見は別として、話しぶりからすると、どう見ても秘密警察官とは思えないが、それは私の希望的観測かも知れない。第一、今知り合ったばかりの外人と一緒に旅をしましょうとは、常識的にあり得ない話だ。
それに、今から切符を買いに行っても残券があるかどうか。もしKGB関係者なら乗車は自由だろうな。と云う事はKGBに無関係な人だったら、切符が買えないから彼女は来ないだけだ。私はいやな気分になった。

夫々、食事代を払って外に出た。満開のライラックの花の房が眩しかった。パイプラインの保守の荒仕事がこの女性に出来るだろうか。もう午後3時になる。
別に用事は無いが、今日のうちにオフィスに立ち寄って、本社から何か電信が入っていないか、観ておきたいと思った。ナースチャ、ちょっと仕事の残りを片付けるんで、オフィスにこれから行ってくる。今夜11時30分に駅につく。私の車両はさっき教えた通り8号車だ。ナースチャも切符が買えるよう成功を祈りますよ。では、今夜カランチョーフスカヤの駅で会いましょう。我々は別れて、私はレニングラッツカヤ・ホテルのオフィスに帰った。特に本社からの入電もなく、私はソファーに寝転び、今別れた女性がカザフスタンの荒野をジープで走り回り、パイプラインの点検をしている姿を想像したが、どうも素直には信じられない。まあどうでもいいや、という気持ちだった。

夜の11:30に、私は「赤い矢号」が停車しているプラットフオ―ムを8号車の処まで歩くとナースチャがこっちを向いて立っている。やあ、チケット買えたんだ、好かったよかった。彼女は6号車に空きがあって買えました、とにっこり笑った。レニングラードについたら、プラットホームを6号車まで歩いて来て下さい。私はそこで待っています。駅からホテルオイロッパは近いから、歩いて行ってオイロッパでゆっくり朝食をとって見物に出掛けましょうと云う。さあ、汽車がそろそろ出るからお休みなさい、と言うと彼女が走って行って6号車に乗る姿がみえた。私は車内の自分の部屋の鍵を開けて中に入ると、初老のオジサンがいたので「ご一緒します」と挨拶をした。オジサンも「よろしく」と云った。 その人は感じの良い人で、バッグからウオトカの瓶と、サーロという豚の脂の塩漬けを出して、私に付き合えと云う。オジサンはちゃんと携帯用の盃を2つ持っていて、それを並べてウオトカを注ぎ、サーロを手際よくナイフで切った。私はサーロという豚の脂身を初めて食べたが、こんな旨い肴を今まで食べたことがない。何やら話しながら頂いたウオトカでぐっすり寝て列車が止まったと思ったら、レニングラードの駅だった。オジサンに御礼を言い、日本の3色ボールペンです、と差し出すと「日本の?」と云って喜んでくれた。

6号車迄歩いて来るとナースチャがこっちを向いて待っていた。「ドーブロエ・ウートロ」、「ドーブロエ・ウートロ」と朝の挨拶をかわし、一緒にホームを歩いて外に出ると(ロシアの駅には改札がない)、インツーリストの女性が出迎えに来ていて、ガスパジンタカギ?と訊くのでそうですと答えると、彼女はナースチャが付き添ってるのを見て安心したように、「では、私はここで失礼します」とインツーリスト嬢は帰って行った。
ホテルのフロントでクーポンを渡すとバスルームの鍵を呉れた。シャワーを使えるよう、鍵をナースチャに渡し、2階のレストランで待っていると云って私は2階に上がった。
ナースチャと朝食を取り乍ら、オジサンが呉れたサーロが美味しかった話をした。ここまでは良かったが、朝食後、見物は始まった。私は何も分からないので総てをナースチャに任せますと頼んだが、いざ名所めぐりとなると彼女の足の速いこと。道中何回も「ゆっくり歩きましょう」と私は頼んだ。これが今晩コンサートをやるフィルハーモニー・ホール、これがゴスチーヌイ・ドボル、カザン大聖堂と歩きながら説明して呉れるのはとても有難いが、ナースチャ!タクシーに乗ろう。昼まで借り切って、昼食後またタクシーに乗ろう。訊いてみたら、何と彼女は学生時代陸上競技の選手だったと云う。健脚はうなずけた。アドミラルティ―、イサク聖堂、タクシーを乗り降りしながらの見学は能率が上がったが、運動選手と鈍足の違いは恐ろしいほどだ。昼はポグレボックという地下室の様な店でブッテルブロード(サンドイッチ)とスープを椅子のないテーブルで立食した。

彼女は昼食の間も何処かに電話をかけに立つ。またしてもKGBとの連絡か。気になるので訊いてみた。「一体何処にさっきから電話してるの?」、すると「私帰りの乗車券が取れてないの。駄目だったら、失礼して私だけ一つ前の汽車で帰らなければ」と云うので私は「そうだったのか」と状況を理解した。それでも、コンサートは途中まで付き合って呉れるのは有難いことだと思わねばなるまい。

さて、もう午後2時だ、エルミタージュに急ごうと2人の意見は一致したが、エルミタージュは1762年に完成した豪華にして壮大な建物で、エカテリーナ2世が多くの美術品を買い集めたそうだ。また、現代のピカソ、セザンヌ、ゴーギャン、ルノワール等の収集も豊富だと聞いている。

エルミタージュの窓口で、二人分のチケットを買ったうえで私は提案してみた、どうだろう、それぞれ見たいものが違うなら別々に別れ、好きなものを見て、決めた時刻に出口で落ち合うと云うのは。私はビザンチン以降の絵を見たいし、時間に余裕があればロシアの移動派の作品を見たいな、と云うと、ナースチャは昔の木乃伊(みいら)と云う。別れ別れになって私は歩き出した。二階に上ると大変な人混み、とても多くは見れそうにない。ダヴィンチ、ラファエロ、ルーベンスは大勢の人の背中が邪魔になり、私はあきらめてロシア移動派の作品を観た。一時間半を有効に使うためにこの決定は正解だった。
レービン、クラムスコイ、アイバゾフスキー、スリコフ、シシキンなどをたくさん見ることができた。これが正解だったと私は満足した。もう一時間半が過ぎようとしてるので出口に急いだ。幾つもの部屋を通らねば、出口まで行きつけないから大変だった。
やっと出口に着いたら、ナースチャは待っていた。ナースチャ、ごめんなさい。廊下がないから、出てくるのに時間がかかったのは私の計算違い、ごめんなさい、を繰り返した。
どうでしたか、何をご覧になってました。と訊かれた。「うん、すごかった。序にロシアの移動派、レーピン、クラムスコイ、レヴィタン、アイバゾフスキーたちのお宝がどっさりあって、また今度来て必ず移動派を見ます。
処で貴女は何を見てました?」と訊いたら、「私、骨とう品ばかり見てました。面白かった」と云って笑った。

モイカ川の畔にあるカフェで一休みした。コーヒーを頼んだら、コーヒーとレモンの薄切り、それに岩石のような砂糖が出てきた。日本だと紅茶にはレモンがつきものだが。
私は日本から持参したピンクの花が散らばった柄の絹のスカーフをナースチャにお礼の気持ちだと言って渡すと、彼女はそれを広げて「まー素敵」と言って大変喜んでくれた。
彼女はモスクワ生まれで、技術系の大学を出てすぐ、今勤務している国立ガス配給公社に入社。と同時に結婚したが3年で離婚。今はカザフスタンでパイプライン管理の仕事をしているという。

さて、コーヒーを飲んだ後欲張って、更に1ヶ所の歴史建造物を急ぎ足で見たら、もう
ヤンソンス氏と約束した7時になろうとしている。フィルハーモニーに急いだ。まだ昼間のように明るいし、「白夜祭りコンサート」は8時に始まるので、我々は時間に余裕ありと、
ついゆっくりと構えてしまっていた。悪いことに夕方の需要でタクシーは空車がない。急ぎ足で歩くが、ヤンソンス氏が指定した時刻に15分も遅れてしまった。指定された入口に
ヤンソンス氏の姿が見えない代わりに毛むくじゃらの男と目が合った。我々は彼に近づくと、男は「マエストロはコンサート前で多忙だから、これ以上待てないと怒って中に入った。チケットを預かっているので、これで入ってください」と云ってチケットを2枚くれた。指揮者はコンサート前が忙しいと云う常識を私はウッカリ忘れていた。
レニンクラード・フィルのホールに入るのは初めてだ。縦長の箱型ホールで、大理石の壁に囲まれている風格のあるホールだ。私らはトイレも済ませて、指定の席に座し、館内を見回していた。オケの団員が三々五々舞台に出てくる。5年前日本に来た顔が、次々登場する。あ、クラマロフだ!エルコーニン、あ、名前はど忘れしたが第一ヴァイオリンのあの、それから、コズロフ、マルゴーリン、マダム・フレール。次々と楽器を抱えて登場する楽員を見て、私は興奮気味だ。やがて皆勢ぞろいする。第一ヴァイオリンの4番目に座っていたリーベルマンが、格上げされてコンサートマスターの席に座っていて、その隣は以前と同じシャックさんが座している。
オーボエが「ラ」を出すとコンマスがそれを受けてオケ全員の「ラ」を統一する。これで「よし」となって初めて指揮者ヤンソンスが舞台の袖から出てくる。曲は全部チャイコフスキー。「バレエ曲白鳥の湖から」「ヴァイオリン協奏曲独奏グ―トニコフ」「交響曲第4番」、いずれも人気の曲目だ。ヴァイオリン協奏曲が終わるとすぐナースチャは、身支度を整える。私たちはお互いに感謝の言葉を交わした。「でも、私、KGBではなくてよ」とナースチャは小声で云いながら、私の頬へキスをして、一人で外へ飛び出して行った。
もし、KGBでないなら彼女の往復汽車賃は私が払うべきだろう。ネッカチーフ1枚では私の心が痛む。21時45分発の準急に悠悠間に合うと云っていた。空席はあると云う。

私は一人残り、交響曲を聴いて後、楽屋に向かった。ヤンソンス氏に15分遅れたことをまず詫びた。ヤンソンス氏は上機嫌で、“演奏はどうだったか”と聞かれたので、“最高です”、と応えた。そして、彼から“山根銀二さんは元気にしてるか”と問われた。山根さんと云う人は日本の評論家の大御所だが、その人によろしく伝えろと云われても、ちょっとやりにくい宿題だが、私はこの難題を請け負った。私は帰国後、ヤンソンス氏の伝言を山根銀二氏にチャンと伝えた。山根氏から私へも丁重な返事がきた。

ヤンソンス氏と話をしている私を見つけた楽員たちが私を取り巻いた。彼らは事前に私が来ることを知らないでいたから、無理もない。団員の一人がウオトカの瓶とグラスを持ってきて、乾杯しようと音頭を取った。素晴らしい乾杯だった。すると、ヴィオラの首席
クラマロフがシャンパンを何本も運んできて、俺たちも一緒に乾杯だと云うと、皆が集まって来て宴会になってしまった。第一ヴァイオリンのレイベンクラフト君も普段は大人しい青年だが、大いにはしゃいで普段は真っ白な顔が真っ赤になっている。
11時になったので、ヤンソンス氏他皆さんに感謝をしてフィルハーモニーを出たら、タクシーを呼んでくれていて、それに乗って駅に向かった。何と中身の濃い一日旅行だったことだろう。
翌朝の月曜日8時に予定通りモスクワに戻ることができたのだった。

おわり