日本のように、一流でなくてもかなり高度に発達した民主主義国では、新自由主義からの逃走先(エーリヒ・フロムErich Fromm「自由からの逃走」参照)は、権威主義ではなく、民主主義以外にはありえない。この「逃走」によって日本は、自らが戦後の高度成長期に一度は獲得した「新中間大衆の時代」(村上泰亮)を再獲得することができる。大多数の日本人の志向からして、「中庸は徳の至れるもの」(孔子)だからである。プーチンは「勝ち負け以外に引き分けのある日本が好きだ」といって、柔道を好み安倍晋三氏と親しかったが、欧米型二進法と異なる三進法・多神教的思考を持つ日本人は幸せである。

フロムのいう「自由からの逃走」の逃走先は、権力主義(ファシズム・共産主義など)であり、その反動としての「権力からの逃走」の逃走先は自由であり、各国の経済はそれに伴って自由経済から統制経済へ、統制経済から自由経済へと変化する。各国の近現代史はこのfrom~to~の繰り返しであり、この繰り返しは権力者を含む自国民の生き残り(サバイバル)のためである。とくに戦争や疫病に敗れた国々によって、自由から権力への逃走と、その後の権力から自由への逃走とが見られる。第一次大戦の戦勝国は、ドイツに自由を与えた代りに莫大な賠償金を課して、ドイツ国民を生存の危機に追い込み、ナチスを生み出した。それよりもっと前、ペストの蔓延を防げなかった教会の権力が亡び、文芸復興期が訪れたが、その後の宗教改革や上記ナチズムは「自由からの逃走」だといわれる。

このように自由から権力へ、行き過ぎた権力から再び自由へ、振り子のように動く国家を長期的に安定させるのが、平和と民主主義の組み合わせであり、安定成長+持続的経済の組み合わせである(SDGs)。自由主義と権力主義との真ん中で、社会的共通資産としての民主主義が、全体社会・部分社会の分厚い土台として存在することが望ましい。戦後日本はこれを念頭に、連合国の協力を得て平和+民主主義の憲法を制定し、実行した。その結果、バブル経済に突入する前の安定成長期に実現したのが新中間大衆の時代であった。新型コロナ禍の今その再建が望まれる。

それは民主主義が国全体だけでなく、地方自治体や企業など、すべての部分社会に行き亙った状態である。企業には国の正三角形(立法=国会を頂点とし、行政=内閣と司法=裁判所を底辺の二角とする)と同様な正三角形(株主総会を頂点とし、取締役会と監査役会を底辺の二角とする)があるが、より重要なのは、経営者を頂点とし、顧客と従業員を底辺の二角とする正三角形である。これについては先号会報への筆者の寄稿「野上弥生子の経営三訓」を見られたいが、8月27日朝日放送の「羽鳥慎一モーニングショー」に出た老人ホーム勤務介護士の「おじいちゃん・おばあちゃんと一緒に旅行してお世話するのが楽しい」との言に注目したい。野上弥生子は従業員の給与と生活を心配したが、民主主義下での経営者は、顧客満足に直結する従業員の働き甲斐(自己実現)にも配慮すべきで、上記介護士の言は、自己実現を達成された方の言として注目したい。(2021.8.29)