松川力夫氏

2020年12月19日(土)松川力夫さんが帰らぬ人となりました。昭和7年(1932年)10月10日(昔で言えば体育の日)生まれ、満88歳と2か月9日の大往生でした。
身体は元々がっしりした体格のお元気な方でしたが一昨年暮れ、二度目の脳梗塞となり昨年1年間病院生活とリハビリに励んで居られましたが回復途上、残念ながら誤嚥性肺炎となりあっけなく千葉県柏市の地から旅立ってしまいました。

彼はニチメンに入社する前、北海道の夕張炭鉱に勤務し、高圧容器取り扱いの免許を持って居たためニチメンの独身寮(南柏寮)の管理人となったと聞いております。小生との出会いは、1978年(昭53年)8月末。小生が大阪から東京に単身赴任した時から始まります。

当時(今もそうであるが)ゴルフに狂っていた小生は隔週大阪に帰省しない週末は、寮の鳥籠(3打席ある)で朝早くから球打ちに勤しんでいました。
寮生の中から「うるさい」と文句を言う御仁もいましたが、こちらは一向にお構いなく練習に専念していました。そうした処に松川さんがひょっこりと現れフォームの悪い所(当時の小生のフォームと言えば丸っきり自己流で、樋口久子張りのオーバースイング。クラブが左肩を大きく回り、右足の膝が右方向に動く誰が見ても可笑しなフォームだった)をあれこれワンポイントアドバイスしてくれ大いにフォーム改善に役立たせて頂きました。
とにかく強調された点は右足膝を正面に向けたまま、テークバッグの折には進行方向にフォワードプレスする気持ちで、絶対に右側には動かさない事。この松川師匠のアドバイスがこれ以降大いに役立ち、かなりスコアも上昇したことは間違いない。
又、寮の中庭には綺麗な芝生が敷かれていて20-30ヤード位のアプローチには最適だったため叱られる事覚悟でロストボールを持ち出し練習していた処に又もや松川さんが現れ(禁止されるものと思っていたが)意外にも彼も一緒に練習に加わったのには驚きだった記憶があります。彼は、昔独身寮内のテニスコート横に会社に無断でバンカーを作り会社から叱責されたと伝え聞いております。左程にゴルフに対して強い熱意を持っており理解をしてくれたと了解してます。

とにかく、松川師匠のすごい点は、ドライバー・アイアンなどの飛距離は普通(並み)なのにショートアプローチ、特にバンカーショットなどの小技が超の字が付く程優れていた事。これは決して勝負を諦めないと言うネバーギブアップの精神と集中力が他人以上にあった為と了解しています。

彼とは度々ゴルフのラウンドや練習をさせて頂きました。
特筆すべきは、彼のお誘いで小生も1980年頃正式会員に入会した「富士カントリー笠間俱楽部」(ニチメンがゼネコンとなり設立したコース:茨城県笠間市)で初代クラブチャンピオンを獲得したことです。現在でもコース内の壁のボードに彼の名前は一番上に残っており我々ニチメン笠間会のメンバーの大いなる誇りとなっております。

彼との数々の忘れられない思い出を2・3ご披露させて頂くと。

(1)先ず、彼と一緒に「ジャンボ尾崎に挑戦」全国放映のTVに参加した話。

結果は残念ながら1敗2引き分けで負けてしまいました。(参加したのは松川さん・山下君と小生の3名。対戦コースは茨城県大子町の鷹彦スリー。ジャンボが建設途上のコースを買収し仮オープン中だった。)その時のTV収録は3週間分を一日録画するスタイルで、A/B/Cのアマ三チームとジャンボが対戦。(3人のアマのベストボール対ジャンボ)
我々ニチメンチームはBチームでホール4番から6番ホールが対戦ホール。
従って、Aチームが1-3番ホールを回って来るまで4番ティーグランドで待機し、TVカメラは所定の場所にスタンバイしていた。

ジャンボがそこに到着し、先ずコスチュームを着替えて(同じものでは具合が悪い)おもむろに我々の身上書(各人ゴルフ歴と現在のハンディキャップなど)を見た途端、ハンディ合計19(松川さん:5,山下君:7,小生:7。全員シングル)だったので「何だ、これはオイチョ株だ」このティーグランドでは駄目だ、としてセットしていたカメラをわざわざ、後ろにセットし直しレギュラーティーからバックティへの変更を無理やり行った。
第一番目の4番ホールは、小生が4番アイアンで2オンしジャンボはウエッジで乗せお互いに2パットのパーで引き分け。
第二番目の5番ホールは200ヤードを超える長いショートホール。(レギュラーだったら170-80ヤード位だったはず)
松川さんと相談し彼が3番ウッドでワンオンに成功。小生は4番ウッド。山下君は何番で打ったか記憶にないがとにかく右左に球が乱れお任せ状態。一方のジャンボは4番アイアンでワンオン。松川さんとジャンボがお互いに2パットのパーで又もや引き分け。

最終ホールの6番、距離は460-70ヤードの距離の長いミドルホール。
とても小生達の腕では2オンは無理なホール。ジャンボは、ロングティー(10センチ以上もある長いティーペッグ)でドライバーを打ち何とセカンドを7番アイアンで2オンに成功、難なくパーをゲット。こちらは松川さんと一緒にアプローチを頑張るも3オン2パットのボギー。ここで残念ながら負けが確定。(この時の随行プロは佐藤精一プロ)
今回松川師匠と初めてプロゴルファーとラウンドさせてもらったが、プロの勝負に対する執念には改めて再認識をさせてもらった。

(即ち、例え相手が素人であっても決して負けないよう心掛けている事。これは負け癖を付けない為か?)
余談ではあるがこのジャンボと対戦した何年か後富士笠間で青木功の弟子、渡辺司プロとハーフをラウンドさせてもらうチャンスがあったが、彼はそれなりにファンを大切にするサービス精神が旺盛であったと記憶する。

(2)次の話は彼が特に活躍した「全日本商社連合ゴルフ大会」の話。

彼とはニチメンゴルフ部で一緒に活躍させてもらったが、その中でも「全商社大会」と言う年二回開かれる総合商社10社の会があり、8名参加し上位7名合計スコアでグループ(会社対抗)で対戦する大会。
我々ニチメンは何度もここで上位入賞(優勝も数回出来たと記憶)し個人戦では松川さんは2回以上は優勝し、全商社の中でも知らない人もない程の有名人であった。(勿論、ハンディ無しのグロス勝負)

(3)講談社主催の「オリンピック杯争奪戦」

又、対外試合としては、講談社が夕刊フジに対抗しタブロイド判の夕刊「日刊ゲンダイ」を発行し始めた折、記事の中にゴルフ欄を書くため、実業界の一流会社を集め対抗戦「オリンピック杯争奪戦」を企画。我々ニチメンにも声が掛かり松川さんと小生が二人一組で参加させてもらった。仕事の関係で1年がかりの対戦となったが、最終的には我々ニチメンチームと「東急ホテルチェーン」との決勝戦となった。

結果は、
ニチメン:松川43・41=84、小生40・44=84 合計 168
東 急 :坂口42・38=80、田村44・46=90 合計 170

優勝賞品は、ボロンシャフト(釣り具メーカーのオリンピック製。当時はやり始めた高級材料のナサボロンのオーダーメードのドライバー。一本25万円すると言われた。)を二人してゲットさせてもらった。

この時の日刊ゲンダイの記事(昭和61年3月30日付け)はセピア色に変色してるが、今でも後生大事に保管している。

(4)歴史と伝統のある長寿の会「ニチメン笠間会」

最後に「ニチメン笠間会」について言及しない訳にはいかない。
この会については、終身会長の石原靖造会長が東京社友会会報(第23号、P-31、2017年12月1日発行)にも投稿されているのでご存知の方も居られるとは思うが、現在開催回数330回を超える長寿の会でメンバーには、吉本邦晴さん・桜井潤一さん・望月清夫さん(ニチメン出入りの印判業:松川師匠とは親友の仲)・川崎毅さん・桝潟磐夫さん、そして最近では岡島隆司君・丸田秀君・上田吉彦君・南部匠君など若手の加入を得て若返りを図っている、ゴルフを心から愛する錚々たる人達多士済々の会である。(今ではクラブ握ってないがかっては中心的な役割を担っていた矢島孝さんも当会のメンバーであった。)
そうした歴史のある当会の最初からのオリジナルメンバーだった松川さんは、常時毎回ベスグロをゲットし、メンバーの中からベスグロは廃止しようではないかの意見も出るほどの超強豪メンバーであった。老境に入った最近では技術顧問というステイタスでメンバーの技術向上に真摯なアドバイスを常に行ってくれ生きる教本だったことは万人が認める処。(ニチメン笠間会特別ルールでラウンド中でも技術アドバイス有りとなっており彼から色々アドバイスを受けたメンバーは数多い。)

彼は最終的に富士笠間のオフィシャルハンディを「4」とし、我々の仲間内では誰もここまで達成したメンバーは未だいない。

彼とのゴルフの思い出はマダマダ尽きないのでここら辺りで終わりとしますが、とにかく、彼のゴルフに対する愛情と熱情は半端でなく技術とそのマナーなど多くの人から尊敬される素晴らしいゴルファーだったことは間違いありません。
いつの日かあの地の「天国カントリー」で一緒にラウンド出来ることを楽しみにこのあたりで筆を置くことにします。

それにしても惜しい人物を失ったものだ!!   安らかにお眠り下さい。

令和3年(2021年)1月10日久本紘一
「富士カントリー笠間俱楽部」(ニチメンがゼネコンとなり設立したコース:茨城県笠間市)で初代クラブチャンピオンを獲得
講談社主催の「オリンピック杯争奪戦」