みなさん、石橋鎭雄さんというニチメンのOBをご存じですか。昭和34年(1959年)11月に専務取締役で辞められたお方です。昭和36年入社の私にとって石橋専務はとても遠い存在でしたので、個人的に在職中の接点は皆無でした。
今なぜ石橋さんの名を持ち出したかについて、実は平成27年7月14日に亡くなられた野村喜久雄さんとの因縁話があってのことです。
本誌の「野村さんを偲ぶ特集」に初めて赴任した当時のインド・ニューデリー店の上司が野村さんだったという拙文を載せていただきました。そのとき石橋さんとのエピソードには触れませんでした。 実は野村さんのご葬儀の時、喪主であられたご子息に「亡くなる直前、東京でお父上からお声がかかって昼食会に臨みました。それが野村さんとの最後でした」と自己紹介かたがた申し上げていたところ、ご子息から会葬御礼の文中に「(前略)・・・近年毎年年末近く(寒くなる前)に東京に行っては、『最後のご挨拶に行ってくる』と話していました。昨年いよいよ最後と思い、お声がけしたのだと思います。・・・(後略)」のメールをいただき、私はニューデリーでの石橋さんとのエピソードをご子息に伝えたのが以下の文章です。原文を修正して披露いたしたく;


野村 隆志様

(前略)
季節もちょうど彼岸の今時分、お父上が中陰を全うされ成仏なされて、向こう岸でにこやかに手を振っておられるお姿が目に浮かびます。
と申しますのは、1966年当時、ニューデリーのスンダルナガル(社宅のあった居住地で『美しい街』という意)の社宅でお父上と起居を共にし、コックに粗末な日本食もどきを作らせ(お金がなかった訳ではありません。食材が手に入らなかった時代です)まさに食べかけたころ、社宅の門前で「団扇(うちわ)太鼓」が聞こえてきます。使用人たちが『グルが来た、グルが来た』と叫びながら、戸外に出てグル(導師、お坊さんのこと)を迎え入れます。グルは薄汚れた柿色の法衣(ほうえ)をまとい、頭陀袋(ずだぶくろ)をかけ、手に団扇太鼓、頭に布きれの帽子を乗せ、素足にゴム草履すがた。
ベアラ-(家内を仕切る男の使用人)、料理人、掃除人、庭師兼門番らが跪いてグルの草履に額をすりつけ、グルは一人一人の頭を掩手して慰めの言葉をかけ儀式が終わりました。
野村さんがグルに『お上人さん、どうぞこちらへ』と声をかけ、長いすに座らせる。グルは『おーい、野村。そこの若いの(私のこと)。何か食わせろ、お腹すいた』。そして私たちが食べようとした夕食を見て、『ああこれか!俺、あした大使(日本大使)のところに行って何か仕入れてくるよ』と宣うた。
このお方は、ニチメンを専務で辞められ、財産の一部を奥様と息子さんに分け、残りすべてを帰依している『大日本山妙法寺(法華宗の一派)』に寄進し、妙法寺がお釈迦さんの眠るインドのラジギル近くに建立した日本寺に修行僧として入山された石橋鎭雄・元専務さんでした。
翌日、石橋さんは「おーい、川西(昨夜名乗って互いに名前を知った)うまいもん手に入れたぞ。日本酒も一升瓶仕入れてきた。大使からせしめてきた。大使は『お前、生臭坊主』と言いながら出してくれた。遠慮いらんから食べて、飲んでくれ」と。そしてお父上と私は石橋グルから逆にごちそうになりました。
後で野村さんから伺いました。当時、日本政府の高官らはニチメンと石橋専務に大きな借りがある。こうしてニチメンが三菱商事、三井物産、伊藤忠、丸紅、住友商事らに伍してインドの円クレ商いに肩を並べられるのは、専務の現役時代のお陰であると。当時ボンベイ店に勤務されておられた太田川努さんの話では、『ビルマ黄変米事件※』というロッキードに匹敵するような世間を騒がす事件があって、ニチメンは石橋さんが最高責任者として当局の調べに自分一人で責めを負い、3カ間の拘留でも毎日団扇太鼓で明け暮れしていた由。他人の名前一切出さず、検事側も根負けして釈放されたとのこと。このため胸をなでおろした人たち数知れず。社内でも社外でも関係者の名前が表にならなかったと。
石橋上人はニューデリー店にときどき顔を出され、冗談半分の説法の中で、スンダルナガルの裏手の大きな川(ジャムナ河のこと。ガンジス河に匹敵する聖なる川)は西方十億土の浄土につながっており、こちらの岸(此岸)から屍の灰を水面に撒き、西方のあちらの岸(彼岸)にうまくたどり着けば極楽の門に入ることができる。ただ七日間ごとの閻魔様の審問があり、七回すなわち四十九日(中陰)を全うすると満中陰になり、極楽に入る資格を有するとの私の俗的理解です。お父上もこんな話を上人から何度も聞かされていると思いますので、きっと今ごろ『ほなら先行くは。あっちで待ってるさかい、晏如してついて来なはれ』などと特有の語りでおっしゃってるのではと、胸に熱いものがこみ上げてきます。 
(後略)

石橋さんラージギル地図
石橋さんラージギル地図

野村バラサブとは、私が入社して5年目に海外に出た最初の上司です。殊の外思い出深い方でした。


こんな話を野村さんの七回忌を控えて、当時のインド店事情に詳しい長谷川洋さんに語ったところ、「俺がカルカッタ店に勤務していた時分、石橋上人はときどき眞保支店長(当時)の社宅に顔を出していたよ。あの人は『鶴ヶ嶺』の後援会長もなされていたよ」と言われ、「鶴ヶ嶺」といえば相撲巧者ではあったが最後は西関脇で引退した。現役引退後「井筒親方」として、また息子三人を関取にした父親としても知られ、息子たち「鶴嶺山」「逆鉾」、「寺尾」、もよく知られたお相撲さんでした。「鶴ヶ嶺の後援会長」とは恐れ入りました。石橋専務にこんな隠れた一面もお有りと驚き入った次第です。私の知る石橋専務は、インド人もビックリのグル(立派な導師)です。でも「生臭坊主」の一面もあって清濁併せ呑む太っ腹の人物とお見受けしました。どなたか石橋専務の現役時代について精悍なお姿を語ってくれる方がいらっしゃれば幸いです。

※(ニチメン100年史から)

食糧部(1946年9月発足)
戦前からビルマで精米所を直営し、戦時中は米、雑穀の輸入実績をもっていた。戦後の食糧危機を打開するため、米国からの援助物資としての農産物の大量輸入が始まり、当社は貿易庁の業務代行を担当することになった。 ・・・(中略)・・・
また、1950年1月、ビルマに経験の深い眞田重治社員(のち取締役)をラングーン駐在員として派遣し、ビルマ米の買い付け輸入にあたらせた。当時、日本はまだ食糧が不足しており、政府は戦後初めてビルマ米の輸入に踏み切り、5万トンの輸入契約がビルマ政府との間で成立した。 
当社は第一物産株式会社(現三井物産)、協和交易株式会社(現三菱商事)と共にその積み出し業務代行商社に指定され、眞田社員は現地でビルマ政府と船積みその他一切の交渉、手続きを行った。同年10月、食糧部は東京支店内に本部をおき、穀類、食品、油脂の3課制をしいて、輸入食糧以外の分野にも進出した。

黄変米事件
1954年7月16日、厚生省は輸入米から黄変米を発見、600トンを配給停止にした。翌日の新聞にこのことが報じられると、「安全度」をめぐって論争が起きたほか、国会で政府の輸入米管理の責任が追及されるなど波紋が広がった。27日の朝日新聞には、「東京の8つの倉庫に分散保管中のビルマ米9,300トンの一部645トンから、黄変米が発見された」ことが報じられた。
30日には農林省と厚生省が、黄変米の毒性基準を引き下げて配給することを決定したため、婦人団体の反対運動が強まり、政治問題に発展した。
この黄変米事件で、当社の石橋鎭雄専務が、ビルマ米輸入責任者として国会に呼ばれ、野党議員から厳しく追及された。汚職の疑いをかけられて、3カ月近くの取り調べを受けたが、容疑は完全に晴れた。

以上