筆者が中国との関わりを持ったのは、早40年も前の話になる。ニチメンは当時、共産圏、特にソビエトと中国に強い商社として有名だった。筆者は大学で中国語を全く学んだこともないので、中国とこれほど関りを持つなど、ニチメン入社当時は全く思いもつかなかった。
筆者が中国との関わりを持ったのは入社4年目の1980年の春、当時在籍していた鉄鋼貿易の上司から中国に1年間留学する話があるが興味があるかと聞かれ、即座に興味ありと返事したことに始まる。筆者と当時建設部にいた鈴木敏朗君、大阪化学品部にいた宮沢清一君の3名がニチメン第1期中国語研修生に選ばれ1980年8月末に北京にある北京語源学院(現 北京語源大学)に留学した。

何故、ニチメンから中国語学研修生が派遣されたかついて経緯を以下紹介しておこうと思う。ニチメンは1979年に中国国際貿易促進委員会(日本の商工会議所に相当するが、中国政府の一機関である、以下“同委員会”)の劉宝華さんと劉鳳荐さん及び中国紡織品進出口公司の牛熱東さんの3名を日本に招き、貿易大学で半年間研修の後、ニチメン東京本社で半年間OJTを受けてもらった。そのお返しとして、同委員会の招待と費用でニチメンから3名の語学研修生を北京で受け入れるがどうかとの打診があり、この要請を受け上記の3名が北京語源学院に1年間留学した次第である。その意味では、学費は全て同委員会の負担で、謂わば中国政府の国費留学生ということとなる。何でもそうだが、タダほど怖いものはなく、上記3名はニチメン(双日)を退職するまで、中国畑で仕事をすることになった。また同委員会から3名のそれぞれに毎月120元(当時の為替は1元=150円で計算すると18,000円)の生活費としてお小遣いが支給された。当時のニチメンの人事部はケチメンの権化のような存在で、この120元は全てニチメン人事部の召し上げとなり、CASH JOURNAL上で本社からの入金として処理するように指示があった。余談だが当時、中国対外貿易部(中国の部は日本の省に相当、以下“同部”)の招待で三井物産から5人の語学研修生が北京語源学院に留学していた。同部からのお小遣いは三井物産本社が召し上げることなく、留学生が自分で自由に使ってよいとのことだった。
当時の中国元には2種類のお金があり、中国人民が使う人民幣(人民元)と外国人が外貨を人民元に交換した時に交換される外貨兌換券(外匯兌換券、Foreign Exchange Certificate=略称FEC *注1)の2種類があった。従い、外国人が航空券や汽車のチケットを買う、中国の外国人相手の商店で何かを購入する、ホテル代を支払、レストランでの食事代金の支払等は、全て外貨兌換券でないと支払が出来なかったので、国貿促から頂いた人民元は支払先に大きな制約があり、実はこの人民元120元を毎月会社のお金として使うのは非常に苦労した。

外匯兌換券、Foreign Exchange Certificate 100元と50元
同右、1角(0.1元)、5角(0.5元)、
1元、5元、10元、100元

北京留学前に、松村誠三中国部長(故人)と住山忠雄さん(故人)のご招待を受け鈴木君も呼ばれて夕食を共にする場を設けて頂いた。この場が初めてお会いしたニチメン中国部の先輩方だった。お二人とも大変温和との印象を受けた。このお二人とはそれからニチメンの会社人生の中で非常に親しくまた楽しく仕事をさせて頂くことになる。
 1980年8月末に、筆者は留学同期の鈴木敏朗氏と共にJALで北京に向かった。当時、中国ではロクなカメラもないだろうからと父がキャノンの一眼レフを渡してくれ、自分が何時も使っていたバカチョンカメラの2台を持って北京に向かった。北京空港で通関の際に、外国人と雖も中国へ持って入れるカメラは1台だけで、もう1台は北京空港税関が没収すると言われ非常に困った。最終的には北京空港税関にカメラ1台を拘留(=税関預かり荷物)3か月以内に持ち帰るよう言われたので、次回出国時にピックアップして日本に持って帰ることにした。北京空港の外で出迎えに来てくれていた濱本北京所長(故人)と藤田長期出張員にその話をすると、日本に近々戻る人間もいるだろうからその人に帰国時にピックアップしてもらい、日本に持って帰ることにすると伺い安心した覚えがある。何故なら、筆者は中国留学の1年間は一切中国から出ることは出来ないと人事本部から言われていたので、北京空港税関の3ヵ月の拘留期間を過ぎると没収されてしまう為である。
留学は北京語源学院(=現、北京語源大学)で北京の学院路にある外国語専門大学である。大学は元々中国人学生に外国語を教える目的で設立された大学であり、1978年中国の最高権力者である鄧小平がスタートした改革開放政策が始まる前までは、中国人学生しか在籍していなかった。中国の改革開放政策により、外国人にも門戸を開き、同大学で中国語の基礎を身に着けてから、中国の他大学へ進学する為の学校でもあった。1980年9月時点に北京語源学院に在籍していた留学生は350名、中国人学生は200名で外国人留学生の方が多いという学校だった。留学生の内、日本人が120名(企業派遣70名、一般留学生50名)で留学生では日本人が最大勢力だった。

1980年当時、ニチメン北京駐在員事務所は北京飯店3階の3024号室に事務所を構えていた。1981年4月末に北京飯店の14階の1422号室に事務所引っ越し、我々留学生3名も猫の手位にはなろうかと思い引っ越しのお手伝いをした。事務所の広さは3倍になり、14階だったので故宮(紫禁城)や景山公園・北海公園を見下ろすことが出来た。留学当初の所長は濱本さんだったが、同年11月に松村さんと交代された。この頃は松村さんと濱本さんのお二人は入れ替わりで北京所長と東京本社の中国部長を交替されておられた。松村さんも濱本さんのお二人とも大阪外国語大学中国語学科のご卒業で、松村さんは濱本さんの1年先輩とお聞きしている。このお二人とは以来長いお付き合いとなった。
1年の北京留学を終えて、筆者は当時の元所属先であった鉄鋼貿易第1部鋼板第2課へ戻り、鉄鋼貿易業務に戻った。中国とは面白い国で、そこで働いている時は苦しい現場から早く解放され帰国したいと思うのだが、少し離れるとまた行きたくなるという不思議な国でもある。上司に早く中国に駐在に出して欲しいとお願いをして1982年7月に業務本部中国部へ移籍、そこで3ヵ月の業務研修を受けた後、同年10月にニチメン北京事務所上海出張所に赴任した。上海では5年間駐在したが、赴任中に所長は榎原さん(故人)、萩原さん、工藤さん(故人)と2年毎で交替されていた。

実は、筆者はニチメンで初めての中国家族帯同駐在員の第1号であり、それまでの駐在員は全て単身赴任であったので、駐在期間も短く2年毎に駐在を交代する制度になっていた。この制度は逆に言えば2年間日本に戻るとまた中国駐在の順番が回ってくることを意味する。ある中国駐在員の任期が明けそうになると、中国部からまた駐在員を出すことになる。当時の中国部長は机の中に仕舞ってあるニチメン社内中国語要員一覧表を見て、次の駐在員を誰にしようかと熟考している様子をよく見かけた。それを見てそろそろ自分の番が回って来たかなと思ったりしたものである。口の悪い人は、「中国部はタコ部屋だ!親方が今日はこの現場、明日はこの現場と指示を出し、ひょいひょいと現場に向かうような職人のタコ部屋のようなもの」と言っていた。何故かと言えば、当時の中国はビジネスでも生活の面でも全て中国語しか通じず、何をするにも中国語が喋れることが必須だった。英語では到底駐在の任務が果たせないことから、特殊言語要員の中国部要員が何時も中国駐在に出る必要があった。現在の中国ではナショナルスタッフに日本語や英語が堪能な人とビジネス相手も外国語が堪能な人が増えたので、中国語が喋れなくとも駐在業務がこなせるようになった。

榎原茂樹さん(故人)は筆者が1982年10月1日に中国上海に赴任した時の最初の所長である。業務ではないが榎原さんとの上海の思い出は国慶節休みの時に、榎原さんの発案で榎原さん・藤田剛君・中田の3名で安徽省にある黄山の登山を行ったことである。榎原さんは大学時代ワンダーフォーゲル部所属で山登りがご趣味だったので黄山を発案されたのだと思う。現在は黄山に行くには高速鉄道(CRH=中国版新幹線)で上海駅から黄山駅まで僅か3時間前後で簡単に行けるが、1982年当時は上海駅から杭州駅へ夜行列車で移動、杭州駅からタクシーで黄山に1日掛りで移動する方法が最速且つ最短ルートだった。上海から列車に乗り杭州へ移動、杭州でタクシーをチャーターして黄山(*注2)に向かった。当時黄山にはロープウェイはなく、全てを自分の足で上り下りする必要があった。黄山には三主峰と呼ばれる蓮花峰、光明頂、天都峰の他69の海抜1000m以上を超える峰がある。東山魁夷は、黄山を「充実した無の世界。あらゆる山水画の技法が、そこから生まれたことが分かる」と評している。眺めるだけなら素晴らしいと感激していればよいだけだが、この山を登ることは多数の峰を登ってはまた下り、また登っては下るという苦行が待っている。中国の有名な山は石造の階段を上り下りするのが殆どである。登山中、雨も降ってくるわ階段もツルツル滑るしで危険極まりない。3名とも膝が痛くなり、自分の荷物さえ持てない状況に陥り、黄山を同行した頑強のタクシー運転手に荷物を持って貰って登山と下山を繰り返した。記憶が定かではないが黄山の中で2泊したと思う。現在は黄山にはロープウェイも設置されて登山も便利になったようである。もう一つの中国で有名な山は山東省にある泰山だが、ニチメンはこの泰山に東京索道のロープウェイを設置している。その仕事をされたのが榎原さんである。矢張り黄山でのご苦労が泰山ロープウェイの仕事に繋がったのでないかと思う。1982年当時に黄山に登山した思い出は榎原さんのお陰である。

黄山にて  左側 藤田駐在員  中央 榎原所長  右側 筆者

   
上海駐在の当初の半年は単身赴任だった。その為、週末はよく駐在員で料理をした。当時の駐在員の宿舎となっていた上海錦江飯店中楼1251号室(ベッドルーム3室、会議室1室、食堂1室、リビングがあった)で料理をした。上海の名物料理と言えば上海蟹(=チュウゴクモクズガニ)である。榎原さん、藤田君、中田で上海の街中の自由市場路上で生きた上海蟹を買って来て、宿舎で蒸して食べることになった。男所帯の単身赴任者の台所には蟹を蒸すような調理器具が全くなく調理が出来ない。そこで1251号室の食堂の奥隣にホテル服務員作業部屋にホテルの各部屋で使用するガラスコップや湯飲み茶わんを消毒するガス湯沸式消毒器があったのを思い出した。この消毒器に買って来た生きた上海蟹を入れて蒸して食べた。翌日ホテル服務員(=従業員)から「ガス湯沸式消毒器が蟹臭い、まさかとは思うが蟹を茹でなかったか?」とクレームされた。どうも蟹を蒸した時に1~2匹蟹逃げ出したことが分かり、ホテル服務員に掃除の際に探すよう依頼して事務所に出勤した。事務所から宿舎に戻るとホテル服務員が脱走しまだ生きている蟹2匹を捕まえたと見せてくれた。蟹が脱走した原因は蟹を糸で縛らず茹でたため、蒸気の熱に耐えられず蟹が脱走したものと分かった。蟹を探してくれたお礼にそのホテル服務員に蟹をプレゼントすると大変に嬉しそうに家に持ち帰った。榎原さんとはその後、中国ビジネスで大変お世話になった。榎原さんはニチメンを退職後、母校の神戸外大で商業中国語の教鞭を取られ、また日本ビジネス中国語学会理事長としてご活躍されたが、惜しくも癌に倒れ永逝された。

左側 榎原所長  右側 筆者
(撮影場所:上海錦江飯店中楼1251号室、日時:1980年秋)
水揚げされた陽澄湖産上海蟹
(写真出所:蘇州陽澄湖大閘蟹業界協会)
茹で上がった上海蟹
(写真出所:たびこふれ)

ここで当時の上海の様子を思い出してみる。筆者の業務範囲は鉄鋼・電子電機・化学品・食料・繊維(大阪繊貿と大阪内地繊維)と守備範囲が非常に広かったことに加え総務経理とナショナルスタッフの労務管理も担当していたので非常に忙しかった。事務所の種々の支払いや駐在員の給与振込/引き出しも全て筆者の仕事だった。給料日は毎月20日であり、筆者自身が中国銀行上海支店(外灘にある)に出向いて、振込と現金の引き出しをせねばならなかった。当時は道路事情も悪く、事務所のあった上海錦江倶楽部から車で往復2時間弱、銀行での手続きに1時間と半日仕事になった。
工藤所長に「済みません、今日は業務が忙しく時間がないので、後日銀行に行って給料支払いの手続をします」と報告すると、「また遅配か!」と良く文句を言われた。工藤所長にお聞きしたことによると、工藤所長の父上は医者で戦前はハルピンにいたが、関東軍が日本からの沢山の満州移民を置き去りにして敗走すると、工藤所長の父上は八路軍に徴用され従軍医師として勤務した。工藤所長は高校生までハルピンにおられたので、中国語は非常にお上手であった。また多趣味の方で、アコーディオンやバイオリンを嗜まれた。上海駐在の後、青島と広州に駐在されたが、広州駐在中に鼻血が止まらないとのことで日本で診察を受けた所、上顎洞癌と診断され、日本で手術・加療に努められたが、病に倒れられ既に故人となられた。工藤所長とは上海でよく喧嘩もしたが、筆者にとって忘れがたい中国部の先輩の一人である。

扨、次に松村誠三さんのことをお話しておきたい。松村さんは四国徳島県のご出身で、若い頃には化学品本部肥料塩課にも在籍されたことがあるとお聞きしたことがある。大の阪神ファンが有名で、北京駐在時代にも駐在員と良く草野球をされておられた。また大の酒好きでもあり、夕方になると事務机の下の方から、ウィスキーの瓶が出てきて、アハハと笑いながら、ウィスキーを嗜まれておられた。筆者が上海に駐在している頃、余り仕事をされない工藤所長に不満が溜り、当時中国地区総支配人であった北京の松村さんにお電話をして、現状を報告、直訴したことがある。松村さんは大人(たいじん)で、「中田君、色々不満はあるだろうが、工藤君には工藤君の良いところもある。是非その良い所を見るようにしてやって欲しい」と諭された。それを聞いて筆者は、工藤さんとうまく付き合っていこうと考え直した。松村さんのこの言葉がなければ、自分は八方塞がりでにっちもさっちも行かなくなっていたのではと思う。また上海駐在終了前に筆者は中国関係の仕事を引き続き続けたかったので、当時中国部長であった松村さんに自分は出身の鉄鋼貿易本部ではなく業務本部中国部に戻して欲しいとお願いし、中国部へ帰任することになった。現在自分が中国で長く仕事をさせて頂いたのは、正に松村さんのお陰であり、松村さんには感謝しかないと思っている。松村さんはニチメン退職後、北京にあるニチメンが出資した物流会社の総経理として赴任されておられたが、帰国後誠に残念乍ら心臓病で長逝された。

次に、濱本益僖さんのことをお話したいと思う。前述の如く、1980年北京留学当初、濱本さんは北京所長をされておられた。1989年6月4日に北京で天安門事件が起きた。その時の中国部長が濱本さんであり、中国駐在員の一時帰国を東京で一手に引き受けられて実行された。このような大変な事件が起こったその翌年1990年に北京に赴任され中国総代表になられた。当時中国部で濱本さんの下で働いていた私も、濱本さんからの指示を受け、北京事務所で総代表助理(総代表付)として1990年8月3日に北京に赴任した。濱本さんとは中国部で部長と課員という環境で仕事をご一緒したこともあり、気心の知れた上司と北京でご一緒に仕事が出来たことは大変幸せだった。当時筆者は中国総代表席の管轄する8店舗の予算と計数管理をやる傍らで、日本外務省の無償援助案件の仕込みと成約に向けて注力していた。濱本さん在任中に貴州省農村改水整備計画(15億円)を受注し、同計画の完成祝いにご一緒に貴州まで出張、当時の貴州省張副省長と面談・会食したのを良く覚えている。その後、濱本さん帰任の後、高野千秋取締役と前田征雄常務が総代表に就かれた。
濱本さんはニチメンを退職された後、田崎真珠に再就職された。ある日、濱本さんから「田崎真珠が女子サッカーチームの実業団チーム持っているが、なかなか強い選手がいないので成績が上がらない。就いては中国の優秀な女子サッカー選手をスカウトしたいので手伝って欲しい」とのお話があった。それを受け、早速、北京市体育委員会に出向き、女子サッカー選手をスカウトしたいと申し入れた所、2名の中国人女子サッカー選手を田崎真珠に派遣することが決まった。その後、田崎真珠はこの2名の中国人サッカー選手の活躍もあり、実業団女子サッカーではかなり上位に食い込んだと聞いている。北京で人買いの仕事をしたのは、これが最初で最後である。その濱本さんも誠に残念乍ら癌で他界された。

筆者は北京に1995年7月28日に北京駐在を終え、東京本社食糧本部長付きとして帰任した。食糧本部に帰任することになったのには、竹村肇文食糧統括部長(故人)のお陰である。この経緯についてもお話しておきたい。中国部に在籍していた1988年に、松村中国部長の指示で、当時食糧本部の竹村部長が中国黒龍江省で進めようとしていたJICAの大豆試験栽培事業に協力することになり、竹村部長とご一緒に何度も中国黒龍江省へ足を運び、黒龍江省国営農場総局(現 黒龍江省農墾総局)の3つの農場(597農場、鉄力農場、克山農場)で搾油用大豆に適した大豆の栽培試験事業(JICA融資額2.5億円)についての交渉を纏め上げたことが食糧本部で仕事をするきっかけとなった。その後、前述の如く1990年8月3日に筆者は中国総代表付きとして北京に赴任した。    
当時ニチメンは日本国際貿易促進協会の中国農業協力委員会の委員長会社であり島崎京一専務(故人)が委員長に就任されておられた。同委員会の目的は黒龍江省国営農場総局(黒龍江省)と新疆建設兵団(新疆ウイグル自治区)の2つの国営農場組織に日本政府の第4次円借款をつけることだった。この日本側の事務局としてワークされていたのが竹村部長で、筆者はこの案件の中国側の担当となった。同委員会ワーク結果、最終的に1997年黒龍江省国営農場総局に三江平原商品穀物基地開発計画として円借款(177.02 億円)が供与された。その後、折しもニチメンが黒龍江省農墾総局傘下の建三江管理局の15の国営農場の農業機械リノベーションを目的として、第二次洪河農場案件(往復2,700万ドル)をスタートすることになり、竹村部長と佐藤三朗課長が東京本社で本件を担当され、筆者が北京で本件を担当した。大型の補償貿易ということもあり、中国国務院の承認を得ること及び中国農業銀行の履行保証を取得するのに大変な時間と労力が掛ったが、最終的には成約に漕ぎ着け、実行できた。以上のご縁と竹村部長のご尽力もあり、北京駐在から食糧本部へ帰任することになった。食糧本部の中国での大型案件を手掛けることが出来たのは、竹村部長のお陰である。竹村部長との出会いがなければ、黒龍江省でのビジネスを行うチャンスには出会わなかったと思う。竹村部長に感謝・感謝である。竹村部長も癌で60歳という若さで早世されたのは実に残念である。

もう一人紹介しておきたいのが緒方政治さんである。緒方さんは木材本部ご出身だが、その後、海外経理で活躍され、筆者は北京駐在の時に事務所でご一緒に仕事をした仲間である。緒方さんは非常に冷静沈着な方で、北京店の経理・総務の仕事を淡々とこなされていた。緒方さんもニチメンの中国語学研修生の一人である。ご趣味は蝶々の採集で、新種の蝶々も海外で発見されたと聞いている。ニチメンを退職された後は、杭州にある日系企業に赴任され、その後帰国された。緒方さんも大変残念乍ら癌で早世された。2013年2月、筆者が取り纏め役となり緒方さんを偲ぶ会を開催、緒方さんの香港と北京の駐在仲間が集まって生前の緒方さんを偲んだ。

業務上ではあまり接点はなかったが、大阪中国課の與沢英五郎さんのことについても少し触れておきたい。
今年5月に與沢さんの奥様からハガキで逝去されたとのお知らせがあった。奥様にお電話でお聞きした所、3月の初めにお腹が痛いと訴えたので、近所の医者で検査した所、すぐに大きな病院で診てもらった方がよいとのことで、大阪大学医学部病院で検査結果、消化器の癌が見つかり、その場で入院された。開腹手術で癌の摘出を試みたが、既に可也転移しており、全ての癌を取り去ることはできなかった。その後、自宅の近くのホスピスで術後を過ごされたが、2020年5月3日に93歳で逝去されたとお聞きした。
與沢さんとは筆者が中国部に在籍していた頃、毎年の春と秋の広州交易会でよくご一緒した。当時、広州交易会は春と秋にそれぞれ1ヵ月という期間で開催され、東京の中国部と大阪の中国課の人間が広州に出張、長丁場の交易会のネゴにあたった。当時の定宿は広州賓館であり、毎朝・毎晩の食事をご一緒することになる。各営業部からの出張者の通訳業務、定宿の確保、食事の準備、更には営業からの担当者が帰国した後の商談のフォローと成約を中国部からの出張者が担当することになる。毎年、この激務を與沢さんが大阪代表としてフォローされておられたのには実に頭の下がる思いである。
また何年か前に與沢さんが大阪から東京にお見えになり東京の中国部の後輩達と食事をする機会があった。その際にお聞きしたのは、今回の東京来訪の主目的は友人からの依頼で、中国の京劇の有名な役者である梅蘭芳(メイランファン)(*注3)の切手を売りに来た。何と、この切手(=下記左側、梅蘭芳舞台芸術小型シート)の売値は1枚で100万円だと伺ってびっくりした次第。梅蘭芳の切手は中国の金持ちのコレクターが血眼になって買い求める切手のようである。大昔、中国に出張され、梅蘭芳の切手をお買いになったご記憶のある方は是非探して頂きたいと思う。

1962年に発行された
梅蘭芳舞台芸術小型シート
梅蘭芳舞台芸術1962年(紀94)』8種

最後になるが大先輩の住山忠雄さんについてもお話しておきたい。毎年の広州交易会に東京の中国部からは住山忠雄さんが毎回参加され、大型商品の大豆・小豆・ハチミツ等の中国糧油食品総公司の食糧食品関係アイテムをご担当された。商談アポイント取得の為、交易会初日の交易会開幕と同時に交易会場の階段を駆け上がり、中国糧油食品総公司のブースを訪問、アポイントの為の名刺配りをされていた。住山さんのお元気の秘密をお聞きしたことがある。住山さんは広州交易会で広州出張時に広州のハチミツ商店でハチミツにローヤルゼリーを購入、これをよくかき混ぜ、これを毎日飲んでいると教わった。また住山さんが御若い時に『中村天風道場』(*注4)で修業をされ天風先生から、ブリル(=肛門)を閉めてと教わりそれを実行されているとのことだった。住山さんがニチメンに入社されるきっかけとなったのは、日中輸出入組合の初代理事長にニチメンの南郷三郎社長が就任、1956年日中貿易協定の首席通訳を住山さんが担当され北京に随行され、これを南郷社長のお声掛けで40歳でニチメンに就職され、東西貿易部(後に中国部に改名)で中国貿易を担当された。住山さんはニチメンの六代の社長訪中時の通訳を担当された。住山さんは確か70歳を過ぎてもニチメン中国部に勤務され、恐らく住山さんがニチメンの社員で一番長く仕事をされた方だと思う。その住山さんもお元気だったが誠に残念乍ら89歳で他界された。
 筆者がニチメンの中国貿易でお世話になった8人の諸先輩についての思い出話を纏めさせて頂いた。ニチメンで中国ビジネス関係の諸先輩に出会わなければ、自分の仕事を全うできなかったと思う。諸先輩方に改めて御礼を申し上げて筆を置くことにする。


  • *注1)外貨兌換券(外匯兌換券、Foreign Exchange Certificate=略称FEC)中国政府が外貨を管理する為に1979年に導入(前年1978年に日中平和友好条約に調印)、翌年4月1日から流通し、1995年1月1日に廃止された紙幣(外貨兌換券)のこと。外国為替専門銀行であった中国銀行が発行し、外国人が観光や商用で中国を訪れ、外貨を両替する際に渡された専用紙幣であり、約15年間流通した。券種は1角、5角、1元、5元、10元、50元、100元(表記は圓)の7種類、表面には万里の長城等の中国国内の観光地、裏面には中国語と英語で使用上の注意が書かれている。表面のデザインは外国人受けするデザインになっていた。
  • *注2)黄山(こうざん)は、中国・安徽省にある景勝地。伝説の仙境(仙人が住む世界)を彷彿とさせる独特の景観から、古代から「黄山を見ずして、山を見たというなかれ」と言われ、数多くの文人が訪れた。黄山は、1990年、ユネスコの世界遺産に指定された。黄山の名は伝説上の王、黄帝がこの山で不老不死の霊薬を飲み、仙人になったという言い伝えに基づいている。秦の時代には黟山(いざん)と称されていたが、唐の時代には現在の黄山の名前に改められた。峰と雲が織り成す風景は、まさに仙人が住む世界「仙境」と言われている。
    多くの文人が憧れ、水墨画、漢詩などの題材となった。「天下の名勝、黄山に集まる」と言われ、古代から中国の人々が黄山の美しさを「天下第一」と称えている。

  • *注3)梅蘭芳(メイランファン) 梅蘭芳は清末から中華民国、中華人民共和国にかけての京劇俳優である。本名は梅瀾。1894年10月22日北京生まれ、祖籍は江蘇省泰州。 女形で名高く「四大名旦」の1人。日本の歌舞伎に近代演劇の技法が導入されていることに触発され、京劇の近代化を推進。「梅派」を創始した。20世紀前半、京劇の海外公演を成功させた。
  • *注4)中村 天風(なかむら てんぷう、1876年7月30日 ~1968年12月1日)は右翼団体玄洋社社員、大日帝国陸軍の諜報員、日本の実業家、思想家、ヨガ行者、自己啓発講演家。天風会を創始し心身統一法を広めた。本名は中村 三郎(なかむら さぶろう)。学生時代に喧嘩で相手を刺殺、日清日露戦争当時は軍事探偵として活動するも、戦後結核にかかり、ニューソート作家の著作に感銘を受け渡米し、世界を遍歴。インドでのヨガ修行を経て健康を回復し悟りを得たとされる。日本に帰国後、一時は実業界で成功を収めるも、自身の経験と悟りを伝える為に講演活動を開始。その教えを学んだ各界の著名人の中には、松下幸之助氏など日本を代表する実業家も含まれている。現在は公益財団法人天風会(中村天風財団)が著作等を管理している。