1.読書というもの

 アガサ・クリスティーが1926年に発表した『アクロイド殺し』はミステリ小説のファンなら誰でも知っている作品だ。しかも、まだ読んでいなくても、誰が犯人か知っている人も多い。知らずに、誰が犯人か推理してやろうと身構えて読むと、結末で驚く。中学時代に読んで犯人の意外さにあっけにとられたし、(小説作法として)こんなトリックがあったのかと感心した。欠点と言えば、このトリックは二度と使えない類のもので、現代の作家が同じトリックを使ったら、馬鹿にされるだけだろう。出版された当時にも、このトリックが読者にとって、フェアかアンフェアか議論を呼んだという。
 1998年にフランスの文学理論の大学教授で精神分析学者のピエール・バイヤールが『アクロイドを殺したのは誰か』という評論を書いた。これが何とも愉快な本で、『アクロイド殺し』を詳細に分析してクリスティーが殺人犯だと明かした人物は犯人ではない、犯人は別の誰それであると理路整然と推理している。つまり、クリスティーが読者に提示したのと同じ手掛かりを使って、違う結論を導き出しているのだ。この評論は2001年に邦訳が出て、ミステリ読者の間で話題になった。たしか1800円くらいの本だったが、絶版のため現在では6000円前後の値段がついている。バイヤールはさらにコナン・ドイルの作品についても『シャーロックホームズの誤謬―「バスカヴィル家の犬」再考』を書き、ここでもホームズの(というか、ドイルの)推理の誤りを指摘し、違う真犯人を名指している。シェークスピアの『ハムレット』の父親の王を殺したのはクローディアスではないと立証した論文(未訳)もあるという。作者が提示した資料から異なる結論を引き出すというバイヤールの知的な解析力には驚嘆せざるを得ない。
 バイヤールには『読んでいない本について堂々と語る方法』という著書もある。一見ふざけた内容を思わせる題名だが、読書や教養の意味を追求した論文らしい。実はこの本は読んでいないので、堂々と語るのは控える。拾い読みすると、例えば、読んだ本について語り合おうとしても話がかみ合わないのは「深層において異なる、互いに相容れないとすらいえる二つの教養の対決」なのだと言っている。前掲のミステリ評論書よりもこの本のほうが有名である。同じマンションに住む金融関係の人がこの本を持っていた。大学の講座を引き受けることになったので、読んでおこうと思ったというから、題名に惹かれて、堂々と講義するこつを書いたハウツー本だと誤解したらしい。
 『【罪と罰】を読まない』という変な題名の文庫本を見つけた。作家、翻訳家、デザイナーなど四人(三浦しおん、岸本佐和子、吉田篤弘、吉田浩美)が顔を合わせたときに、四人とも『罪と罰』を読んだことがなく、ラスコーなんとかいう若者がばあさんを殺す話じゃなかったっけ?という程度の知識しかないことが判明。他方、読んだことがあるという作家、評論家、翻訳家、編集者、書店員など”小説”に携わるプロに訊ねると、昔読んだけど主人公
のラスコーなんとかがおばあさんを殺すんでしたよね?と、読んでいない人とあまり大差のない認識であることが分かった。それで、「読んだ」と「読んでない」に大差がないなら、読まずに読書会を開けるのではないか、四人が持っている数少ない情報を寄せ集めて、『罪と罰』はどんな物語なのか、話の筋を推測し、作者の意図や登場人物の思いを探り当てる読書会をやってみようということになる。最初の集まりで『罪と罰』の最初と最後の1ページが配られて未読書会が始まる。この本は四人の座談会の記録なのだが、ともかくいずれも、創造力と空想力に優れた知識人なので、奔放な展開、暴走、脱線、意外な推理などが入り混じって、なんとも面白い本に仕上がっている。『罪と罰』を読んだことがないのだけど、それでも面白かった。
 結果として、四人の座談が『罪と罰』という古典大作の詳細をとことん突き詰めた、読みやすい評論・研究書になっており、『罪と罰』を読んでいなくても読んだような気分になれる。同時に本を読むということは、どこまで深く、あるいは浅く読むべきなのか、おのれの姿勢を反省する気分になる。彼らは読んでいない本について堂々と語ることを実践したわけだ。しかしバイヤールについては、まさかこの人たちが読んでいないとは思えないのだが、一行の言及もない。
 座談会のテキストには光文社と新潮社の文庫本の『罪と罰』が使われている。ドイツ人の女が警察で事情聴取されていて「大尉どの、うちの店、上品ですよ」と言って、少なくとも前後3回は”大尉どの“が出てくる場面を三浦しおんが光文社版から引用している。警察で大尉どのというと、軍事警察のように聞こえる。読んでいないから、軍警か民警か分からないのだが、英米の場合、警察署長はcaptain であり、captainには大尉の意味もある。そう考えると、ロシア語でもカピタン(?)みたいな言葉で、大尉と翻訳したのは署長の誤訳なのではないか。というか、誤訳であると堂々と言いたくなる。で、本屋に行って、新潮文庫版を数分立ち読みしてみたら、こっちのほうはちゃんと署長と訳されていた。

2.RとLの問題

 と言っても、右翼・左翼の話ではない。カラチに駐在していたとき、日本語の達者なパキスタン人が、日本人はなぜ林檎をringoと書くのかという。何を言おうとしているのか戸惑ったが、彼の言うには林檎を日本人は“lingo”と発音しているというのだ。彼の疑問は、ラ行の音を”R”に統一してしまったヘボン式の欠点を指摘していたと言えよう。バイリンガルの帰国子女に訊いてみると、日本人はラ行の音で始まる言葉のほとんど全部を”L”の音で発音しているという。なるほど、六本木、列車、ラーメンは確かに“L”だ。それどころか、”R”で始まるradio, racketなどもladio, lacketと発音している。日本語には昔から”L”と”R“が混在していたようで、1788年に書かれたオランダ語入門書『蘭学階梯』ではラ行は“L”で表示されているとのことだ。
日本人が概して”L”と”R”の発音を使い分けるのも、聞き分けるのも苦手なのは、この混在のせいであろう。英語圏の人に、日本人がHollywoodというとHorriwood, waitressというとweightlessに聞こえたりして、からかわれる。
 新しい元号の令和のアルファベット表記は“REIWA”であると政府が発表した。これについて東大の小島毅教授という人は「REIWAより実際の発音に近いLEIWAにしたらどうだろう」という意見を新聞に載せていた。”実際の発音に近い“とは妙にデリケートな言い方である。
 ニチメンと付き合いのあったアメリカ人のプラントエンジニアとヒューストンで再会したら、こんな話をしてくれた。彼が社内で日本・アジアのプラント商内の状況の報告会をしたとき、ときどき何人かが顔を上げて変な表情で彼を見る。終わってから親しい友人に、おれ、なにか変なこと言ったかねと聞くと、ともかく自分のスピーチを録音して聞いてみろよという。それでテープに入れて聞いてみて、RとL がごちゃ混ぜに入れ替わっているのに気が付いた。彼は日本に長かったから、郷に従った結果になった。