長引くコロナ禍とウクライナ戦争によって停滞した国際経済と国際貿易が、疫病と戦争との共存の常態化という不確実ながら奇妙な安定のもとで、待ったなしで始動した。再び経済のグローバル化と活発な貿易・投資と人材交流による、パックス・メルカトリア(通商による平和:自造語)の到来が期待され、国内でも久方ぶりに春闘による大幅な賃上げが期待される。桜も例年より早く開花した。私も妻ロス鬱から立ち直った。自分史ブームなどの出版もいま盛んである。

こんななか、東京社友会の山岸正雄さんから、自費出版された一冊の重厚な歴史書を頂いた。B5版400ページにのぼる大冊で、「真実に近いと思われる日本古代史」と題されている。一見してこの題名はおかしいと感じる。なぜならこの本の中で古代・中世が最初の三分の一、次の20ページぐらいが近世(江戸幕府)で、160ページめの冒頭から「第21章 明治維新」が始まって以後、近代の記述が全体の半分以上を占めるからである。古代史の書物ではない。時代・事件への比重の置き方も均一でなく、教科書には使えない。だがこの本の真価は「真実に近い」ことの探求にある。「歴史とは事実によって人を導く哲学である」というカーライルの名言を思わせるような、理系人らしい真実探求の飽くなき意欲を感じる。特に明治維新の記述が詳しい。希少な明治天皇の写真もある。

この大冊を少しずつ読んだある日の午後、私はいつものように自宅近辺の散歩に出かけた。自宅は垂水と舞子の中間の、淡路島に対峙する海岸の老人ホーム内にあり、垂水・舞子は源氏物語で有名な須磨と明石の中間にある。垂水・舞子間の海岸散歩が私の日課である。須磨には明治天皇が大津事件で傷ついたロシア皇太子を見舞った須磨離宮(今は市民の公園)、舞子中央公園には明治天皇歌碑・孫文記念館・旧鐘紡舞子倶楽部(旧武藤山治邸)などがある。少し離れた山手には、舞子ビラ・ホテルとその別館があり、後者は皇女和宮の婚約者だった有栖川宮の別邸の跡地にある。明治天皇の歌碑には下記の文が彫られている。

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明治天皇は舞子の景勝をことのほか愛され、1885年以来、7回にわたって行幸されました。この最初の時の様子が歌碑に三首の御製と共に刻まれています。

有栖川宮親王殿下が御別邸を建てられるまでは、舞子有数の料理旅館だった亀屋旅館がよく御在所となっていましたが、1928年の国道2号の拡幅工事で移転することとなり、1936年の国道工事竣工に合わせて、この旅館の跡に明治天皇の歌碑が建立されました。またこの歌碑は1998年の国道拡幅により、舞子公園内の位置に移設されました。

正面の御歌 舞子潟 舞子の浜に旅寝して見し夜恋しき 月の影哉

右面の御歌 あしたづの舞子の浜の松原は 千代を養ふ 処なりけり

左面の御歌 播磨潟 舞子の浜の浜松の かげに遊びし 春惜しぞ思ふ

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むかし有栖川宮の別邸があり、今も舞子ビラに「有栖川」という料理店があるので、当地では皇女和宮が生涯に一度でも有栖川宮と会えたのだろうかという憶測が、悲恋ロマンスとして話題になるが、現実はそんな生易しい話ではないことが、山岸さんの本を読めばよくわかる。いつの時代も多くの日本人は大変な時代を生きて苦労してきた。私たちの年代もそうであった。よくこんな歳まで生きて来られたと思う。それだからこそ、歴史の探求は必要だし、苦しくも楽しいのだと思う。山岸さんの本はこんなことを、私たちに教えてくれる。

(2023年3月26日、86歳の誕生日に)

コーヒーブレイク

早瀬三郎さんの白寿と百寿

ニチメン大阪社友会の最年長会員である早瀬三郎さんには、今までにも何度も会員寄稿に登場して頂いた。その早瀬さんが昨年(2022年)12月、満99歳のお誕生日を迎えられ、お住いのマンションでお祝いの食事会を開かれ、私もそれに招かれた。添付写真はその際の早瀬さんのお元気なご様子である。今年2023年のお正月には、めでたく百寿を迎えられた。今年12月には満100歳のお誕生日のお祝いに参加させて頂く予定で、そのご様子をまたお伝えしたいと思う。

写真説明・・・写真前列真ん中が早瀬さん、その向かって左が筆者、後列のお二人はご子息早瀬洋三さまのご夫妻。前列右は著名な商法学者だった故河本一郎教授の夫人で、早瀬さんと同じマンションにお住いの方。河本先生は私が神戸大の学生だったとき教えを受け、早瀬さんがハンブルグに駐在しておられたころ同地に留学されたので、早瀬さんが夫人を招いてくださった。