2009年10月ニチメン大阪社友会報No.5及び2009年12月ニチメン東京社友会報No.7では「勉強好きに変身“学問のすすめ”」と題する拙稿を掲載していただきました。
小生は退職後、有り余る時間の有効活用のため大学に入り直すこととし、退職直後の2000年4月、63歳の時に、仏教系の「大正大学」人間学部仏教学科に一年次即ち教養課程から入学、仏教を基礎から勉強し始めました。
卒業論文は「現代中国の仏教-現状と展望」で、共産党支配下での仏教について海南島の巨大な仏教テーマパークの中心にある南山寺を現代中国の仏教寺院の典型例として取り上げフィールドワークによって現状を分析しまた将来を展望しました。当時中国は1980年代から改革開放政策の進展で仏教は大きく復活を遂げつつあって時代の変化の息吹を感じさせられました。
次いで「東方学院」という私塾に通い更に勉強を続けましたが、大正大学も東方学院もいずれも仏教を謂わば日本仏教の内側から見ることが中心となっていましたので、次のステップとして外側から見る必要も感じ、母校「慶應義塾大学」の今度は文学部に学士入学し、更に大学院へ進み東洋史を専攻、2009年73歳で修士号を取得、修士論文は「シンガポールにおける華僑・華人の仏教-人間(じんかん)仏教の影響と進展」と題し、中国人の仏教(華僑華人を含む中国人の仏教)に対する正しい理解のために中国及びアジア各地でのフィールドワークを中心に取り組みました。中国仏教の寺院はけばけばしく迷信に満ちていると見なされがちですが、これは繁華街にある観光名所としての寺院について言えることで、大多数の寺院の実態は例えば迷信排除おみくじも禁止で仏教の原理原則に忠実であることが改めて確かめられました。
この研究は学会や講演などいろいろな機会で発表し皆さんの認識を深めていただけましたが、それとは別に一般の方々の反応で意外だったのは全般的な問題として仏教書を読んでいても仏教用語がわかりにくくそこでつまずいてしまって仏教に対する理解がなかなか深まらないというお話でした。そこで本稿ではその原因となっている「音写と意訳」の問題に絞りこんで述べさせていただきたいと思います。

仏教はご存知のようにインドが発祥の地ですが、日本には中国経由で伝来しましたので、表現には主として漢字が使われています。漢字は表意文字ですから漢字一つ一つに意味があります。ところが、外国語が中国に伝わってきたときにそれに対応する言葉が中国語にない場合があります。これが日本ですと、カタカナやひらがながありますので、それらを使って音写で表現できるのですが、中国ではそうはいきません。中国は頑なに漢字を使います。その一方で漢字を使って意味を伝えることができると判断すれば意訳をします。経典などではその両方がごちゃ混ぜになっていますので特に日本人には厄介です。例を挙げて説明します。
先ず、肝心要の「仏陀」ですがこれは音写です。古代インドの言葉サンスクリットのBuddhaの意味は目覚めた人とか覚った人ですが、適切な中国語がないので音写で仏陀としたのです。因みに「仏」という字は日本製の漢字で、中国語では繁体字、簡体字どちらも「佛」です。「佛」は仏教が中国に入ってきたときに新たに造語されたものと言われています。
釈迦も音写です。お釈迦様は釈迦族の王子として生まれましたが、この釈迦はサンスクリットではŚākyaでこれを音写して釈迦としたのです。釈迦という漢字には意味がありません。また釈迦牟(む)尼(に)とも呼ばれますが、釈迦牟尼の牟尼はサンスクリットmuniの音写で意味は聖者です。したがって、釈迦族の聖者となります。尼は意味としては尼僧ですが、ここでは尼僧とは全く関係ありません。一方で尼僧に該当する中国語は比丘尼でこの場合の尼は尼僧の尼ですから、もう本当にややこしいです。因みに比丘(びく)はサンスクリットでbhikṣu 、意味は乞食をする人、つまり出家して托鉢する人、従って僧侶を意味します。
般若(はんにゃ)心経の「般若」はサンスクリットの俗語paññā からの音写です。また菩薩はBodhisattvaからの音写の菩提薩埵(ぼだいさつた)を略して菩薩としたものですが、いずれにせよ音写です。このように仏教の表現にはインドの言葉を音写したものが非常に多く、一方我々日本人は漢字の意味にとらわれますので非常に分かり難くなっています。他に音写でしばしば出てくるものには、Amitābha 「阿弥陀」、arhat「阿羅漢」、kāṣāya 「袈裟」、śarīra 「舎利」、nirvāṇa 「涅槃(ねはん)」、stūpa 「卒塔婆(そとば)」、pāramitā 「波(は)羅(ら)蜜(み)多(た)」等々があります。
さて、意訳の方ですが、「因果」「縁起」「慈悲」「帰依」「解脱」「無量寿」「無量光」「布施」「如来」等々たくさんありますが、意訳と音写を前後関係なく混ぜたものもありこれが厄介です。阿弥陀+如来、観世音+菩薩、般若+心経、梵+天、補陀落+宮、等々です。
それでは一つのインドの言葉に対して一つの中国語による音写または意訳かというとそうではなく、これが幾種類もあったりして戸惑います。例を挙げて説明します。
先ず、観世音菩薩ですが、別名は観自在菩薩です。同一菩薩が異なった名前になっていますが、なぜこのような事態になってしまったのでしょうか。これは写本によって原語に二種類あり、また翻訳者の考え方によってその選択が異なったりしたことが原因と考えられます。原語はAvalokitasvaraとAvalokiteśvaraの二種類あり(なぜアルファベット表記なのかは後述)、真ん中あたり片方はaで片方はeとなっています。Avalokitasvaraの方は中国仏教史上最高の翻訳者として知られる鳩摩羅什(くまらじゅう)(Kumārajīva 漢人でなく西域の人)が採用して意訳で、世の中の音を観る、観世音菩薩としました。音を観るというのはおかしいのですが宗教的神秘性が感じられたのか歓迎され定着しました。一方、これも中国仏教史上非常に有名な三蔵法師として知られる玄奘も翻訳しまして、こちらはAvalokiteśvara の方を翻訳し同じく意訳で、自在に観る、観自在菩薩と翻訳しました。理屈の上では観自在菩薩の方が勝っているように見られますが、実際には観世音菩薩または略して観音菩薩、さらに略して観音が圧倒的に広く使われています。しかし観自在菩薩の方も健闘しまして、かの有名な般若心経の中で用いられその名をしっかりと留めています。いずれにしましても、観世音菩薩と観自在菩薩は同じ菩薩なのです。案外知られていませんのでこの点も指摘しておきます。

(般若心経冒頭部分抜粋)
玄奘訳:佛說摩訶般若波羅蜜多心經
觀自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄・・・・・
鳩摩羅什訳:摩訶般若波羅蜜大明呪經
觀世音菩薩行深般若波羅蜜時照見五陰空度一切苦厄・・・・・

般若心経には実は更に多くの翻訳者があり、ちょっとマニアックになりますが、音写もありまして、阿婆盧吉低舎婆羅とか阿縛盧枳低湿伐羅なんていうのも実際に仏典に出てきます。これでは一般的に使われないのは当然でしょう。
次の例は祇園精舎です。平家物語で〝祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり〟とあり有名ですが、その祇園精舎です。精舎は意訳で僧侶の修業する建物のことですが、祇園は音写で、しかも略語なので複雑です。ある富豪がお釈迦様やその弟子たちに精舎を寄贈しようとしましたが、それを建てる敷地の園林が必要です。そこでその園林の所有者であるジェータ太子から大金を投じて購入しますが、まずこのジェータが音写されて祇陀でその祇をとり、また園林の園をとって合わせて「祇園」となったのです。京都の祇園の由来はこんなところにあります。なおついでに説明しておきますが、諸行無常の無常とは、常が無いという意味で、つまり常に変わらない事や物は何もないということです。よく無常ではなく無情と勘違いしておられる方も時々おられますので説明した次第です。
また日本語でも音写の面白い例がありますので紹介しておきます。「日光」の地名の由来です。日光は世界遺産としても有名ですが、この日光が観音様のお住まいになるところを意味すると言われてもピンとくる方は少ないと思います。観音菩薩はインド南方にあるとされるPotalakaというところに住んでおられると言われています。チベットの宮殿がポタラ宮と呼ばれている所以です。中国でも随所にポタラという名前に因むお寺が建てられましたが、ここで音写の問題がまた出てきます。中国ではこれを補陀落と音写しました。ところが日本人はこれをフタラと読み、次いでこれに二荒(フタラ→フタアラ)という漢字を当て、栃木県の男体山の別名として二荒山としました。そのうち二荒を誰かが音読みでニコウと呼んでしまいまして、それを聞いた人がニコウならニッコウ→日光にする方が美しいように感じ、もともとのPotalakaがとうとう日光に化けてしまったのです。

さてここで仏教経典の原語であるインドの言葉について若干ふれておきます。仏典に使われているインドの言葉にはサンスクリット語、パーリ語、マガダ語などがありますが、日本で引用される言葉にはサンスクリット語が多く、パーリ語は原始仏教や上座仏教(小乗仏教)の経典関連で出てきます。いずれも独自の表音文字が使われ日本では梵字と呼ばれています。ところが論文などでは梵字そのものは使われず、もっぱらアルファベットで表示されています。これはサンスクリット語やパーリ語の研究が最初はイギリス人によって始まったことによります。インドがイギリスの植民地だったころインド駐在のイギリス人裁判官がインド研究のために諸文献の解読に努め、サンスクリット語の全容を解明するに至ったのです。その結果、サンスクリット語は英語や特にドイツ語によく似ていることを発見、インドの言葉とヨーロッパの言葉が同根であることが確認されたのです。そして仏教経典も読み解かれ、仏教学がヨーロッパで始まり発展することにつながっていったのです。しかし梵字のままでは分かり難く、一方同じ表音文字としてアルファベットへの転換が容易なので、研究にはアルファベットが使用されることになったのです。従って日本でもアルファベットで表示されていますが、これはあくまでも便宜上で、もともとは梵字なのです。従って、日本の仏教では梵語(サンスクリット語)、梵字、アルファベット、漢字の音写と意訳、日本語の音読みと訓読み、ひらがなとカタカナが入り混じり本当に理解を難しくしています。日本で梵字が使われる機会は限られますが卒塔婆とか位牌の中などに使われています。

なお補足ですが、サンスクリット語が英語やドイツ語と類似している例として下記のような言葉があります。インドヨーロッパ語として一括りにされているのが良く解ります。

サンスクリット語 ラテン語 ギリシャ語 ドイツ語 英語
mātṛ मातृ mater mater mutter mother
pitṛ पितृ pater pater vater father
私を me मे mihi moi mich me

仏教では理念や思想の問題も勿論ありますが、本稿では仏教の理解を深める一助として「音写と意訳」の問題に絞って述べさせていただきました。
多少なりともお役に立てば幸いです。(了)