林生期のいま振り返ると、家生期(1959-99)を過ごした商社(日綿実業・現双日)への感謝の念が強い。入社後すぐ担当したのが債権保全・債権回収で、民訴と民事執行法だけでなく民商法全般を復習した。審査部では経営分析の手法から会計学と簿記の基礎を知った。海外経理部も経験した。ブラジル駐在時(1974-77)には工業簿記・ラテン系語学や事業撤退の手法を学び、帰国後は予防法務・臨床法務を提言・実行して、国内・国際取引の契約書作りや、国際事業からの撤退・アジアでの電話網工事などプラント輸出と合弁会社作り・欧米企業と事業の買収を担当した。最後は化工部門で主に中国での合弁会社作りを担当して、不成功分も含め合計37回中国に出張した。最後に担当したのは台湾糖業らとの台湾でのプリント基板製造合弁会社作りで、多くの台湾有力企業の参加を得、とくに印象に残っている。
家生期ではこのように、学生期(1937生→1959神戸大法卒)に学んだ社会諸学に、自学や商社勤務で得た諸知識を付け加えて実践したが(若いころにした労働組合活動もまた、学生期に学んだ労働法と社会政策の知識をアップデートして実践した)、国内外に亙って多くの知識を実践でき、家政の基も築くことができた。

商社マン生活の終わりごろから、同期社友・中川十郎教授や早大江夏先生のお奨めもあり、教職に転じて今まで実践してきた諸学を学生に教えたいと思うようになった。幸い商社の子会社定年後の2000年から5年間(実際は6年)、一村一品運動で有名な平松知事下の大分で、日本文理大学の国際経済学担当教授を委嘱された。理論経済学を教えるのは初体験なので、書店で国際経済学の本を大量に買い込み、その1冊を教材に選び、他の本の助けも得て理解しながら教えた。そのうち国際ビジネス論など実学科目も担当するようになり、学生の就職意欲向上に努力した。中国などアジアから来た留学生も多く、日本人と一緒に日本語で受講して日本の会社に就職したり、大分大学経済学部の大学院に進学したりしてくれた。
大学は別府湾を見下ろす大分郊外の丘の上にあって、海岸にある4基の円形の石油タンクが見下ろせた。このタンクは商社4社の共同出資で成り、数年前にこの会社の非常勤役員として総会時に何度かここを訪れたことを懐かしく思い出した。春霞がかかった姿が美しい。大学周辺の春は講義中に鶯の谷渡りが聞こえ、畑からひばりが天に昇るのが間近に見られた。毎朝の出勤が楽しかった。帰郷しない休日は佐賀関方面に出かけて海岸沿いに歩き、豊後水道から豊予海峡を抜けて響灘へ流れ込む黒潮の輝きを見、豪快な海潮音に聴き惚れた。いま林生期の明石海峡を前に見ての老々介護つき自適生活も含め、これらもみな、すべて商社勤務のお蔭であるが、もう二度とこんなしんどい人生はしたくないとういうのが、日本の高度成長期を生きた者の本音でもある。(2020年1月)