愛新覚羅(あいしんかくら)という名前をお聞きになったことがあると思う。中国の近代史と現代に繋がる重要な清朝王族が愛新覚羅である。清朝最後の皇帝(ラストエンペラー)となったのが、大清帝国第12代皇帝となった溥儀である。溥儀の正式な名前は愛新覚羅溥儀、その実弟が愛新覚羅溥傑である。溥傑の王妃は侯爵嵯峨家(公家華族)の長女の嵯峨浩(さがひろ)で、流転の王女として有名である。溥傑と浩の長女の慧生(えいせい)は、天城山心中で死亡した女性として知られる。
今回は、溥儀や溥傑の話ではなく、最後の生存王女であった愛新覚羅顕琦(あいしんかくらけんき、以下「顕琦」)についてご紹介したいと思う。
1990年頃だと記憶しているが、実は筆者はこの顕琦に北京で一度お会いしたことがある。筆者は北京駐在時代の上司の松村さん・濱本さんから、今晩、愛新覚羅顕琦と一緒に食事することになっているから、来るかとお誘いがあり、北京市内にある首都飯店の日本料理店で食事をした。当時は、顕琦が愛新覚羅の一族の末裔であるとお聞きしていたが、顕琦がどのような人生を歩んで来たか、恥ずかしながらよく知らなかった。会食時に顕琦の日本留学時代の話が出、小坂旦子さん(詳細後述)との思いで話をされていた。それから数十年立ち、最近、彼女の自伝である「清朝最後の王女に生まれて-日中のはざまで」(中央文庫刊、1990年4月10日初版発行)を読んで、今更ながら顕琦の壮絶且つ劇的な半生について再認識したので、以下顕琦の辿った半生についてお話したいと思う。

愛新覚羅顕琦(清朝王族姿)
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愛新覚羅顕琦(子供時代)
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晩年の愛新覚羅顕琦
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愛新覚羅顕琦(中国名:金 黙玉)
愛新覚羅顕琦(1918年9月14日-2014年5月26日)は、清朝八大親王の一人、第10代粛親王愛新覚羅善耆(あいしんかくらぜんき)の末娘(第十七女)として旅順に生まれた人物である。粛親王一家は清王朝滅亡を機に北京から旅順に亡命、その後、天津郊外に在住。最後の生存王女であった。旧字体では愛新覺羅顯琦(簡体字:爱新觉罗显琦、拼音: Àixīnjuéluó Xiǎnqí(アイシンジュエルオ・シエンチー)。中国名は金 黙玉である。
1918年(大正7年)9月14日、第四側室の末子(第17女)として旅順(現在の遼寧省大連市)で生まれる。同側室が生んだ子は男王6人、女王3人で、母を同じくする2人の姉の1人が、第十四王女「男装の麗人」「東洋のマタ=ハリ」こと川島芳子であった。父の粛親王は、1922年(大正11年)3月15日に旅順で死去している。顕琦の両親は彼女が4歳のときに亡くなり、彼女は主に異母姉妹によって育てられた。昭和の初期に男装の麗人として有名で関東軍の手先となったとされる川島芳子本名は愛新覚羅顕㺭(あいしんかくらけんし、中国名は金璧輝)は同腹の4番目である。川島芳子は大正2年(1913年)、川島浪速(かわしまなにわ)の養女となり来日。昭和の初め、清朝の再興を画策し上海に渡り、日本軍の工作員として諜報活動に協力。日本敗戦後、中国で逮捕され漢奸(中国を裏切った人物)として銃殺された。

川島芳子(本名:愛新覚羅顯㺭)
出所:ウィキメディア

 

愛新覚羅顕琦と馬万里と結婚br>
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顕琦は旅順博物館や旅順ヤマトホテル近くにある旅順高等女学校に入学、長春高等女学校への転校を経て、女子学習院(現・学習院女子高等科)へ留学する。同学卒業後の1940年(昭和15年)、日本女子大学英語科へ進学する。翌1941年(昭和16年)、日中戦争が激しくなったため帰国。1945年(昭和20年)に第二次世界大戦が終結、1949年(昭和24年)10月1日に中華人民共和国が建国された。
顕琦は北京で兄の子どもたちの面倒を見ながら四川料理屋を経営、この頃に画家であった馬万里と結婚。1956年(昭和31年)、周恩来の肝入りで設立された北京編訳社の日文組に入社、翻訳関係の業務を行う。1958年(昭和33年)2月、イデオロギー闘争に巻き込まれ右派勢力として密告により逮捕され、判決が出るまで6年間も拘束される。刑務所に行く前に夫の関与を避けるため離婚。顕琦はその後15年の獄中生活。さらに文化大革命で天津の農場で7年間の強制労働に従事、この間に施有為と再婚した。
鄧小平に肉体労働ではない仕事を与えるよう頼む手紙を送って身分を回復、北京の文史研究館で職を得て北京に移り住んだ。然しながら、長年監獄に収監されていたこと、前職の北京編訳社が消滅していたこと等から、北京で住む家が無かった為、この頃は友人の家に間借りをしていた。顕琦は思い切ってその頃登場した趙紫陽総理に手紙を書き、北京市から2DKの分配を受け、やっと人並みの生活が送れるようになった。
顕琦は自分がこのような数奇な人生を歩むことになったのは、清朝の王女に生まれたこと、実姉が漢奸として日本のスパイとして銃殺されたこと、更に旅順・長春・東京と一貫して日本の教育を受けたことから、中国人でありながら中国のことを余り知らなかったからだと述べている。
一方、1996年に日本政府の支援で河北省に日本語学校を設立、日本各地を訪問し、講演活動等を通じて日本語教育へ力を注ぐ。2014年(平成26年)5月26日、北京の病院で死去。95歳没。死の数ヶ月前から入院していた。
1986年(昭和61年)11月に日本で出版された『清朝の王女に生れて-日中のはざまで』は、顕琦が自らが日本語で書いた自伝本である。故郷、旅順や実姉の川島芳子の思い出、女子学習院への留学から日中戦争後の北京での生活、そして文革期15年の投獄生活、その後7年間農村での強制労働などが書かれている。1990年(平成2年)4月に文庫化、2002年には中公文庫新版が出版されている。著書の中でも恨みや批判的なことは書かれておらず、本人は4年制の大学へ3つ通わせてもらったと語っている。
1982年旧友の小坂旦子さん(こさかあさこ:三井家の出身、小坂徳三郎=信越化学社長・会長、衆議院議員、運輸大臣の妻)、福岡百合子さん、武久恭子さんの計らいで女子学習院の同窓会に招かれ、四十数年振りに震えるほどの喜びで日本を訪問、同窓会で沢山の友達からやさしい言葉と誠に細やかな心配りに包まれアッという間に滞在期間の20日が過ぎたと顕琦は述べている。その時に小坂旦子さんの勧めで自伝のようなものを書いたらと言われたこと、後年、川島芳子について北京に取材に来た上坂冬子からの後押しもあり、自伝を書き、原稿を上坂冬子に郵送、それを上坂冬子が中央公論社に回して自伝が発刊された。
太平洋戦争前、実姉・川島芳子を「男装の麗人」として舞台化、初代水谷八重子が主演を、顕琦は東京・有楽町で観ている。自伝に「あらお姉さまにそっくりね」と当時の感想を述べている。中学時代の新京(現、吉林省長春市)や高校時代の東京・世田谷で、芳子のお見合いで会った時のエピソードも紹介されている。川島芳子が結婚式を挙げた旅順ヤマトホテルでの結婚式に顕琦は参加したこと、また、戦後モルヒネ中毒になった芳子の様子も同書の冒頭で紹介している。近代中国の表と裏を知ることが出来るこの1冊、是非ご一読願いたい。