1.フランスから届いた大伯父の「講演録」

私は、本年(2017年)3月までアリスタライフサイエンス(株)と謂う会社に勤めておりました。この会社は、ニチメンとトーメンの海外事業を含む農薬事業部門を統合して2001年に設立され、その後数回の変遷を経て現在はNY株式市場上場会社のPlatform Specialty Products (PSP) の農薬事業部門の日本法人として国内の農薬販売、日本の農薬の海外開発とアジア地域の農薬事業を統括する組織です。昨年(2016年)亡くなられたニチメンの島崎元専務を中心とする諸先輩と旧ニチメンの農薬部隊が築いたGlobalな事業を形を変えて引き継ぎ発展させている会社という見方も可能だと思います。

この会社に勤務中の2009年の或る日、アリスタEurope社の元社長Francois Richard 氏から一通のメールを受け取りました。それによると自分の曽祖父(日本を含む美術品の収集家でGillot Collection の創始者Charles Gillot氏)は、日仏協会の会員であった。その関係でKakichi Mitsukuri という人物の “La Vie Social au Japon” という本を持っている。同氏は動物学者で東京帝国大学理学部の教授だった人だが、Mitsukuriという名前からしてもし貴兄と関係があるなら、そして貴兄が希望するならその本を贈呈したいという趣旨でした。

邂逅とは、まさにこういう事なのでしょう。Richard氏は、ニチメンが1994年に買収したフランスを本部として欧州、中近東、アフリカ地域に農薬事業を展開していたCalliopeと謂う会社の社長でアリスタ設立後2005年までアリスタEuropeの社長をしていた人物です。Kakichi Mitsukuriこと箕作佳吉(1857-1909)は、私の祖父箕作元八(ゲンパチ1862-1919)の兄にあたる人ではありませんか。

件の本は、Richard氏の好意に甘えて送付して貰い、佳吉のお孫さん経由岡山県津山市の「津山洋学資料館」に寄贈させていただくことにしました。因みに同資料館は旧津山藩出身の江戸末期~明治時代の蘭学者をはじめとする洋学者の資料を管理・展示している所で、洋学に関連する講演会などを活発に開催しております。

La Vie Social au Japon (日本の庶民生活)は文庫本の2倍位の大きさの150頁の日本の庶民文化を紹介する絵入りの小冊子で、佳吉が明治31年(1899年)1月にボストンでLowell Institute の要請で英語で行った講演を宮島幹之助(1872-1944)という慶応大学医学部教授が仏語に翻訳し序文も起草したとされています。内容は、日本が短期間に急速に西欧化を進めているが、日本にはそれを受容する昔からの長い文化的な伝統があった経緯と、正月、盆などの年中行事などを通じた日本の庶民の生活を紹介したものです。

2.箕作佳吉とその兄弟

佳吉という人は一体如何なる人物で何故このような講演に招かれたかを以下で簡単に紹介したいと思います。その為には、背景事情として自分の先祖の話をする必要があり気の重い点もあります。事実、旅行談と一族の話は人を退屈させると言われています。暫しご辛抱ください。

佳吉は蘭学者箕作阮甫(ゲンポ1799-1863)の孫、そして同箕作秋坪(シュウヘイ1825-1886)の第3子として安政4年に生まれました。父秋坪は、当時幕臣および津山藩藩士を辞し「三叉学舎」という英語塾を開いており佳吉は此処で学んだ後慶応義塾を経て大学南校に転校し、ハウスという雇い外国人兼米国人記者の自宅に寄宿します。この縁でハウスの帰国時に誘われて米国留学をする結果となりました。佳吉15歳の時でした。コネチカット州Hartford の公立高校を卒業後工科大学で土木工学を試みますが、視力が弱い為工学を諦め1877年Yale大学に転校、海洋動物学を専攻します。同校卒業後ジョンホプキンズ大学で学び1879年23歳で帰国、翌年東京大学理学部動物学科教授に就任します。

その後三崎の臨海実験所の設立に携わり、海洋生物学の研究を続けると共に政府の要請で海洋に関連する国際会議に参加する一方、学校教育に関する委員等を務めております。明治31年のボストンにおける講演も、ワシントンで開催された米、英、露、日4か国オットセイ保護問題評議会に専門委員として出席した際Lowell Institute の講演依頼に応じたものです。当時は急速に西欧化を進める日本に関する興味は米国でも高まっていたものと思われます。

海洋生物学の研究では、海洋生物・昆虫など約40種の学名にMitsukuriが付いているそうですが、これは臨海実験所の所員等が佳吉に献上したもののようです。もっとも有名な例はミツクリザメ(学名:Mitsukurina Owstoni Jordan 1898)です。又佳吉は、御木本幸吉に養殖真珠の技術的な助言をした経緯があり、御木本真珠店に以前佳吉の写真の入ったパンフレットが置いてありました。尚、La Vie の訳者宮島幹之助氏は、明治31年に東京大学理学部動物学科を卒業しておられ、指導教授は佳吉であったと思われます。同氏はその後北里柴三郎一門の学者として活躍されました。

秋坪には、奎吾(ケイゴ1852-1872)、大麓(タイロク1855-1917)、佳吉、元八の4人の息子がおりました。

長男奎吾は、幼い頃から英語を学び13歳の時開成所(蛮書調所の後身)の「英学稽古世話心得」を仰せつかり15歳で幕府の英国留学生に12歳の弟大麓とともに選ばれ渡英しました。しかし徳川幕府の崩壊により帰国後、父秋坪の運営する「三叉学舎」の教授を務めておりましたが、明治4年隅田川で遊泳中に溺死してしまいました。

次男の大麓は、父秋坪の生家である菊池家を継ぎましたので、菊池大麓として知られております。大麓は、兄奎吾と共に明治元年に英国より帰国しますが、明治3~10年明治政府の命により英国に再度留学、数学を専攻してロンドン大学とケンブリッジ大学を卒業し明治10年に帰国、東京帝国大学教授、総長、文部大臣などを歴任しました。

三男の佳吉については前述のとおりです。

四男の元八は、父親の営む三叉学舎で、漢学、洋学を学んだ後明治13年東京大学理学部に入学し動物学を専攻しました。指導教授は兄の佳吉になります。明治19年(1886年)から25年までドイツに留学し動物学の研究を継続予定のところ、兄佳吉以上に視力が弱く顕微鏡での観察に無理があった為、一念発起して歴史学に専攻を変更します。帰国後第一高等学校の教授などを経て明治32~34年再度独、仏に留学、西洋歴史の研究を継続し帰国後東京大学の教授に就任し、日本に西洋歴史を広く紹介しました。

昭和47年3月8日付のニューヨークタイムズ紙のザルツバーガー記者の昭和天皇との単独会見の記事に天皇が「無数の人々から知的影響を受けたが、最大の影響を受けたのは日本の英雄でもなく、天皇でも又著名な科学者でもなくミツクリ・ゲンパチと謂う教授だと語られた時には側近の人々でさえ驚いていた様子であった。19世紀末から20世紀初頭にかけて西洋史を日本へ翻訳紹介したミツクリは、特に現在有名な人物ではない。」という記事が載っていたそうです。父秋坪が営んでいた三叉学舎の塾生が各界で活躍していましたので元八の子供時代を知る彼等が少・青年時代の昭和天皇への東宮御学問所での元八の西洋史の講義を設定したものかも知れません。元八は、「フランス大革命史」、「ナポレオン時代史」、「西洋歴史講話」、「世界大戦史」等を著わしております。

3.佳吉兄弟の父秋坪と祖父阮甫

次の疑問として一体何故この兄弟たちは明治初期に欧米に留学することに成ったのか。この辺の背景を以下に考察してみます。

4人兄弟の祖父阮甫は、寛政11年(1799年)津山藩の藩医箕作貞固(テイコ1758-1802)の三男として生まれますが、4歳で父を失いその後12歳までに兄二人と姉を失い家督を継いだものの減額された扶持で母親と二人の家族となり物質的に非常に厳しい生活を強いられます。漢学、医学(漢方)を学んだのち18歳から21歳まで京都で医学を修業後帰藩、藩医の一人に加えられました。3年後江戸詰を命じられ、蘭語と西洋医学の必要性を痛感して蘭学者で津山藩江戸詰藩医の宇田川玄真(ゲンシン1769-1834)に入門、医学と蘭学の研究に専念し西洋医学書等の翻訳を行います。その間「蛮社の獄」(1839年)で幕府天文台の蘭学者小関三英(1787-1839)が自身に類が及ぶことを恐れて自殺した為、その後釜として天文方和解御用(ワゲゴヨウ)=翻訳員に登用されました。

当時の国際情勢は、日本がいつまでも鎖国政策をとり続けることを困難にしつつありました。嘉永6年(1853年)には、ペリー(1794-1858)提督が「黒船」で渡来、フィルモア大統領の親書を提出しますが、米側に英文を蘭文に直してもらいこれを和解御用の杉田成郷(1817-1859玄白の孫)と阮甫が翻訳しました。更に同年ロシアの使節プチャーチン(1804-1883)が長崎に渡来し幕府は勘定奉行川路聖謨(カワジトシアキラ1801-1868)を交渉の為長崎に向かわせますが、その際川路の求めで阮甫も翻訳係兼相談役として同行します。更に安政2年(1855年)には、同使節が下田に来航再び川路が阮甫を伴って交渉に当たり、同年12月日露和親条約が締結されました。翌年、幕府は、外交交渉などの外国語文書の翻訳の急増に対処する為、天文台和解局を廃して「蛮書調所」を設立しその教授に阮甫を指名しました。

阮甫は、藩医の立場上医師としての仕事も勤めその面でも高く評価されていた様ですが、蘭語文献の翻訳と西洋の学問に関する著述により強く使命を感じており、訳本・著作は99部166冊に上り、その対象は医学・薬学、地質・天文・物理学、地理学、歴史学、兵学・造船、法学など驚くほど広い範囲に亘っております。

尚、史実に忠実に作品を書く事で知られる作家の吉村昭氏(1927-2006)は、阮甫を好意的に見ていたと思われ、その作品「長英逃亡」、「フアン・シーボルトの娘」などで軽い脇役として阮甫を登場させておりますが、長崎及び下田でのプチャーチンとの日ロ交渉に関しては、川路聖謨を主役、箕作阮甫を準主役の待遇で「宴の後」という小説に登場させております。

阮甫には息子が無く4人の娘がおりそのうち一人は夭逝した為、菊池秋坪を次女「つね」の婿として、又佐々木省吾を3女「しん」の婿として養子縁組を行いました。(長女「さき」は、呉家に嫁す。)

佳吉兄弟の父秋坪は、現在の岡山県上房郡北房町にあった津山藩預所学校という社会教化を目的とする学校の学監であった菊池文理の次男として生まれました。兄は夭逝し13歳で父を失い17歳の時に津山藩士稲垣茂松氏に引き取られ漢学を学び19歳の時同氏に連れられて江戸詰津山藩医箕作阮甫に入門し、その後一時大阪の緒方洪庵(1810-1863)の「適塾」でオランダ語を学んだ後、江戸に戻り「つね」と結婚することに成ります。嘉永6年(1853年)6月ペリーが浦賀に来航、幕府の情報収集への協力の為、津山藩は秋坪に現地調査を命じ、秋坪は調査報告書を提出しております。同年10月には、幕府より天文台の和解方(ワゲカタ)に任命されます。

翌年1月ペリーが再度渡来し同年3月幕府は米国と和親条約を締結し、日本は開国を迎えることになります。この間、幕府は幕末の混乱のため蘭、露、英、仏と相次いで締結した「修好通商条約」の履行が困難となり、文久元年(1861)末、開港・開市の延期交渉の為使節団を欧州に派遣します。秋坪は雇翻訳方兼医師としてこの訪欧団に加わります。使節はその目的を一応果たして翌年末帰国しますが、この際未解決であったロシアとの北方領土問題交渉の為、幕府は慶応2年(1866年)末ロシアに使節団を派遣、再び秋坪は翻訳方としてこの使節団の一員となりました。結果的にこの交渉でも北方領土問題は結論を得られず翌年5月帰国します。この年には大政奉還が行われ、大きな歴史の転換期を迎えます。秋坪は明治元年に隠居し、三叉学舎を開設して後進に対する洋学の指導にあたりました。

4. 法学者箕作麟祥

此処で佳吉兄弟の従兄であり又ある事情で長兄にもあたる西洋の法律を日本に紹介する役割を担った箕作麟祥(アキヨシ1846-1897幼名貞一郎)について触れておきたいと思います。

阮甫は、門弟の佐々木省吾(ショウゴ1821-1846)を三女「しん」の婿として箕作に迎え入れました。省吾は、岩手県水沢藩士佐々木佐衛治の次男として文政4年に生まれますが、14歳で両親を失い、師事していた蘭方藩医坂野長安に引き取られました。地理学に興味を持ち、江戸に出て長安から話を聞いていた阮甫に入門します。入門後省吾は、蘭語の資料を翻訳・参考にして世界地誌の本を出版します。弘化元年(1844)世界地図「新製輿地(よち)全図」、同2年「坤輿(こんよ)図識」5巻3冊、同3年「坤輿図識補」4巻4冊が出版されました。これ等の本は江戸末期の外国船が近海に出没する時代に外界に強い興味と警戒心を持っていた人々の間に流布し、箕作家の家計も潤ったと言う事です。然し、省吾は労症(肺結核)により弘化3年末26歳で亡くなってしまいます。

省吾の死の4カ月前に生まれた長男麟祥は、阮甫の初孫になります。麟祥は、5歳の時母「しん」が加賀藩の江戸屋敷に奉公に出たため、阮甫とその妻登井(とい)に育てられます。漢学を12歳頃より学んでおりますが、蘭学は阮甫の弟子たちが読むのを傍らでみて相当な力をつけたため、阮甫も蘭学を教え始めたと言われます。文久元年(1862)16歳の時幕府より「蛮書調所英学教授手伝並出役」を命じられます。阮甫は麟祥を中浜万次郎(1827-1898)の英語塾に入れておりましたので、此処で英語の力を付けたものと思われます。同3年(1863)「開成所教授見習」、翌元治元年には「外国奉行支配翻訳御用頭取」を命じられます。この間日中は、開成所に勤め夕刻より家で英学を教えておりました。

慶応2年(1866)幕府は翌年パリで開催される万国博覧会に参加することを決定、将軍慶喜(1837-1913)の名代として弟の徳川昭武(アキタケ1853-1910))を団長にして慶応3年(1867)計31名の使節団を派遣します。麟祥は、「御儒者次席同翻訳御用」(通訳をも兼相心得候)という肩書でこの一行に参加することとなりました。これは本人の強い希望もあったようで、麟祥は急遽仏語の独習を始めます。既に学習していた漢語、英語、蘭語の知識が仏語の学習に極めて役立ったと思われ、パリ到着の数か月後に同行の商人清水卯三郎(1829-1910)の依頼で仏文の約定書を作成したところ仏人よりその出来栄えを称賛されたそうです。一行がフランスに滞在していた期間は、慶応3年2月末から同年12月中旬までの約10か月間です。麟祥は、この10か月間を除いて従弟たちのような長期間の外国滞在の経験はありませんが、この旅行を機会としたフランス語との出会いがその人生を決定づける結果となります。

帰国の年9月に時代は明治となり麟祥は、明治政府から開成所の御用係に任命され、翌明治2年に政府よりナポレオン法典の刑法の翻訳を依頼されこれを完成させます。次いで明治7年にかけて民法、憲法、訴訟法、商法、治罪法の翻訳も依頼され全6法が「仏蘭西法律書」として文部省より刊行されます。この時代には、まだ法律の研究書も少なく適当な法律用語もなかったため、動産、不動産、治罪法、義務相殺、未必条件などの法律用語を作ったと言われております。On the job training という言葉がありますが、この場合には訓練を受ける人の上司や組織は十分な業務知識を有していることが前提になります。麟祥の場合、法律学を専門にしていた訳ではなく参考文献も無く、指導する先生も無く、日本にない制度や概念を短期間に訳したわけですからon the job training でも大変な苦労をしたに違いありません。当時明治政府は、急速に近代化、西欧化を推進しつつあり欧米諸国との不平等条約の改定が喫緊の課題でありました。条約の改定について欧米諸国は日本が法治国家で無いとしてこれを拒んでいた為、兎に角法律を作ることが何よりも優先されるという背景がありました。特に麟祥が苦労したのは、民法です。民法の編纂を急ぐ司法卿江藤新平(1834-1874)の誤訳でも良いから速訳をという指示で悩んだ麟祥は留学を申請しますが、麟祥が不在になると法文の草案作成が遅延するという理由で許可されず、代わりにフランスの法律学者ブスケ(Bousquet, George 1846-1937 在日1872-1876)が招聘されます。更に13年(1880)民法のうち財産編を政府の招聘により滞日中のフランス人法学者ボアソナード(Boissonade de Fontarabie 1825-1910 在日1873-1895)に依頼することになり、ボアソナードがフランス語で原案を作成し麟祥がこれを訳す形で草案が進められその過程で両者間に専門的な意見交換があったと想像され、相互信頼の関係が成立したようです。

その後、麟祥は司法次官、行政裁判所長官などの法律関係の要職を歴任しますが52歳の時急逝して仕舞います(明治30年11月)。民法全編が施行されたのは麟祥の死の翌明治31年(1898)7月のことでした。

司法次官であった明治22年(1889)麟祥は、現在の法政大学の前身である和仏法律学校の初代校長に就任し終世その職にありました。前述のとおり渡仏前にも自宅で英語の塾を開いておりましたが、帰国後も公務が多忙になるまでの期間私邸で「共学舎」と謂う塾を開き多くの門人を育てたということで、麟祥は日本に近代法を紹介する役を担うと共に後進の指導にも熱心な人であった様です。

5.おわりに

以上に江戸末期から明治時代に亘る3代の足跡を見て戴きました。人は歴史が創ると謂われますが此の3代を振り返ってみるとその感を強く感じます。一代目の阮甫が西洋医学・科学に関する強い興味から進めていた蘭学を通じた研究が、時代の要請で活用されましたが、蛮社の獄の例の様に蘭学およびそれを通じての開国への道筋を必ずしも快く受け入れない背景事情は、常に感じていたものと思われます。2代目の秋坪は、蘭学および英学を活用して西欧諸国への使節団に加わりました。第1回の使節団が帰国した文久2年(1862)頃には攘夷の勢力が強大となり、海外に行ったことや海外の事情を口外することすら注意するようにとの奉行よりの内訓があったそうですから、開国に対する国内世論は鋭く対立していたものと思われます。3代目即ち筆者の祖父にあたる世代の人たちは、若年時代に海外で学び各々の分野で欧米の知識を導入する役割を担ったことになると思います。江戸末期からの開国、明治時代の急速な日本の近代化に欧米の社会・制度・文化などの情報を提供する役割を担った3代だったと思います。

かく申す筆者自身は、残念ながらこれら学者のDNAを受け継いでおりません。只、祖父系統の強度の近視のDNAを引き継がなかったことを不幸中の幸いと思っております。

以上

参考文献:
  • 「箕作阮甫の研究」蘭学資料研究会編 思文閣出版 昭和53年
  • 「箕作秋坪とその周辺」次郎丸憲三著 箕作秋坪伝記刊行会発行 昭和46年
  • 「洋学者 箕作阮甫とその一族」(岡山文庫 170)木村岩治著 日本文教出版(株)
  • 平成6年
  • 「箕作佳吉とその時代」玉木存著 三一書房 1998年
  • 「増補 北里柴三郎とその一門」 長木大三著 慶應義塾大学出版会発行 2003年
  • 「生誕170周年記念 日本近代法学の祖 箕作麟祥」
  • 津山洋学資料館平成28年度秋季企画展資料
  • 津山洋学資料館編
  • 「箕作の名前をもらった生物一覧」瀬能浩作成 津山洋学資料館第72回文化講演会資料
  • (平成29年4月開催)
  • 「箕作元八 欧州箙梅日記」 井出文子・柴田三千雄編 1984年 東京大学出版会
  • 「箕作阮甫先生生誕200周年記念 箕作阮甫自筆資料展」(平成11年度津山洋学資料館
  • 特別展報告)「一滴」第8号 2000
  • 「津田真道と箕作麟祥のラテン語学習」原田祐司 「一滴」第9号 2001
  • 「蛮書和解御用と津山藩の洋学者」(蛮書和解御用創設200周年記念企画展報告)
  • 「一滴」第20号 2012
  • 「杉田玄白生誕280年記念 解体新書と美作の洋学者たち」(平成25年度夏季企画展報告)「一滴」第22号 2015
  • 「(資料紹介)中澤廣江宛て箕作秋坪書簡にみる三叉学舎」田中美穂 「一滴」第23号 2016
注:「一滴」は、津山洋学資料館の機関誌